介護で後悔しないために何ができるだろう
相手が見せている部分は、私の反映。
家族なら尚のこと。
前回、父について書いたあと、なんと数日後に少し事態に進展があった。
私が探してきた自由診療を「受けてもいい」と父本人からゴーサインをもらった。
そして色々父の体調と相談しながら進めていくはずだった。
その時は「あ~本当に自分の捉え方を変えるだけで、行動も変わり状況も変わるんだな~」と感動した。
相談に乗ってくださったお医者さん方も含め、もうあらゆる方に感謝して、先生の一言に、父の表情が一瞬明るくなった時は、涙が出そうになりZOOMで画像が粗くてよかったと思った。
だがしかし。
またお試しがやってきて、ちょっとしたことから父がいきなり不信感を持ち始めた上に、在宅介護の難しさに父本人が家族に対して申し訳ないという気持ちが強まって気がめいってしまった時期があった。
いつも謝ってばかり。「自分が迷惑をかけないように」という意識が過剰になってきたように見え、萎縮して一回り小さく見えた。
しかも、何度も同じ話をしては驚いたり、顔をしかめ面にしていて、もうもはや声を発することが難しくなってしまったので、筆談にも疲れてしまった様子。
こう書きながら、私はもう一度自分に言い聞かせている。
そのように捉えているのは、他でもない自分。
父が母とけんかしたり、謝りながらしょぼくれている姿をみて、私は居た堪れない気持ちになるが、父本人にとっては、このような状況でも母とそのように残りの時間を過ごせているのは幸せなのかもしれない。
私が父に望むような余生の暮らし方でなくても、たとえそれを見守る家族がつらかったとしても、それは私が主観的につらいと思っているだけで、本人の本望かもしれないんだ。
本人が望めば、手を差し出すことが出来るけど、本人が望まない場合は勝手なタイミングで手を貸してはならない。
チャラカサンヒターの治癒についての章に、似たようなことが記してあった。
大切なのは、父が望むようにしてあげること。どんなつらいことであれ、父の人生の経験の機会を奪ってはならない。父のために私にはあと、なにが出来るんだろう。
耳が聞こえるうちに、ちゃんと「ありがとう」「おとうさんはそのままでいいんだよ」って伝えたい。
そう思って、帰省した。