私の教材研究法(2)ー種田山頭火「青い山」とは何か?
今回は、種田山頭火の無季自由律俳句
(1)分け入つても 分け入つても 青い山
を題材として、教材研究をしてみたいと思います。
前回は、指導書の解釈をそのまま用いて、そこに至る過程を考えました。しかし、今回は指導書の解釈に少し問題があり、それをそのまま用いることはできません。そのような時に、どのように考えていけばよいのか? それについても触れていきたいと思います。
(1)語の意味と文法事項の整理
まずは、使われている語の意味を辞書で調べるところからです。「分け入つても」は、「分け入る」という動詞の連用形に「〜ても」が付いた「分け入りても」が元々の形です。そこで、「分け入る」という語を辞書で調べると、「かき分けて中に入る」(『広辞苑』第五版)とあります。
しかし、これではまだ「誰が何をどのように?」が明示されていません。「誰が?」に関しては「作者」あるいは一句の「主体」と考えてよいと思いますが、「かき分けて中に入る」とは一体、「何を」かき分けて、「何の」中に入るのでしょうか? 句中に「青い山」とあることから考えて、主体が歩いているのは山道。「山道」についての常識的な知識は、おそらく次のようなものでしょう。
(2)山の中を進んでいて、左右には草むらや木々が生い茂り、鬱蒼としている。
すると、この(2)から、「かき分けて中に入る」とは「山道の左右に生い茂っている草むらや木々をかき分けて、山の中へ入っていく」ことであると分かります。
また、(1)の句では「分け入つても分け入つても」というふうに、「AしてもAしても」という繰り返し表現が用いられていますが、これは「いかに(いくら)Aしても」という譲歩の節と同じ意味になります。「主体がいくら山道の左右に生い茂っている草むらや木々をかき分けて、山の中へ入っていっても」というわけですから、この主体は「かなり強固な意志をもって、山道を進んでいる」ことが分かるでしょう。すると、「分け入つても分け入つても」とは結局、
(3)主体がいくら強固な意志をもって、左右に生い茂っている草むらや木々をかき分けて、山の中へ入っていっても
という意味であることが分かります。さらに「〜ても」を辞書で調べると、
「〜ても」逆接の条件を表す接続助詞。仮定またはすでに起こった事柄を条件として示し、後に述べる事柄がそれに拘束されないことを表す。(『明鏡国語辞典』第二版)
とあり、(3)の後に続く事柄は、(3)の事柄には拘束されないものであることも分かります。これはつまり、
(4)いくらPしても、Qである。
と言う時には、
(5)PしたらQではない。(Qでないことは、Pによって拘束されている。)
という信念が、聞き手の意識の中にあり、(4)は(5)が成立しないことを示す、ということです。具体的な例を挙げると、
(6)いくらダイエットしても、体重は減らない。
という譲歩節を含んだ文が使われるのは、あらかじめ聞き手の意識の中に
(7)ダイエットしたら、体重は減る。
という信念があり、この(7)が成立しないことを示したい時です。
(2)「青い山」とは何か?
以上のことを踏まえて、末尾の「青い山」という語の意味を考えていきます。まずは指導書の解釈を見てみましょう。
生命感に溢れた深緑の山。(解説)生命感に溢れた深緑の山は夏の季節感も感じられるが、自由律の立場からは自然の生命感に感動の中心が置かれている。
「夏の季節感」はともかく、「生命感に溢れた」や「自然の生命感」という要素は一体この句のどこに根拠があるのでしょうか?「青い」という語には「未熟だ」という意味がありますが、「生命感に溢れた」という意味はありません。すると、そのような解釈ができるかどうかは、文脈から判断するしかないでしょう。
しかしながら、上で確認したように、(1)の句は譲歩節を含んでおり、譲歩節を含んだ文(4)は、聞き手の意識の中にある信念(5)が不成立であることを示す時に使われます。この句に即して言えば、
(8)主体がいくら草むらや木々をかき分けて、山の中に入っていっても、「青い山」だ。
は、聞き手(ここでは、俳句の読者か、作者自身)の意識の中にある、
(9)主体が強固な意志をもって、草むらや木々をかき分けて、山の中に入っていけば、「青い山」ではない。
が成立しないことを示していると考えざるを得ません。しかし、この「青い山」を「生命感に溢れた深緑の山」と解釈すると、
(10)主体が強固な意志をもって、草むらや木々をかき分けて、山の中に入っていけば、生命感に溢れた深緑の山ではない(生命感に乏しい山だ)。
という信念が、俳句の読者か、作者自身の意識の中にはあったということになってしまいます。しかし、これは不合理です。
「青い山」とはむしろ、「到達しがたい、はるか遠くに青く見える山」と解釈するべきだと私は考えます。すると、この句は
(11)主体がいくら草むらや木々をかき分けて、山の中に入っていっても、山は到達しがたいほど、はるか遠くに見える。
という意味となり、これが示しているのは、
(12)主体が強固な意志をもって、草むらや木々をかき分けて、山の中に入っていけば、山はすぐ近くに見える(山に到達できる)。
という信念が成立しないということです。(12)のような信念ならば、読者や作者が持っていたとしても、全くおかしくはありません。
(3)ことごとく書を信ずるは書無きに如かず
以上、種田山頭火の俳句を題材として、指導書の解釈に問題がある場合の教材研究について書いてみました。そのような場合に大事なことは、何よりもまず、語の辞書的意味や文法事項に忠実に、作品を解釈することです。評論でも小説でも詩歌でも、それが国語教育のアルファであり、オメガであると私は思っています。
ところで、今回は指導書の解釈をかなり批判的に見て来ましたが、それは決して指導書が何の役にも立たないということではありません。指導書の解釈は、多くの場合、「誰が考えてもそうなるだろう」という解釈に落ち着いています。ただし、時折そうではないこともあります。必要なのは「信じるか信じないか」という態度ではなく、「ことごとく書を信ずるは書無きに如かず」という態度です。