見出し画像

【書評もどき】A.J.エイヤー『言語・真理・論理』

1.全体について

エイヤーのこの本について、Twitterでつぶやいたことをまとめました。本書全体については、以下のツイートの通りです。

A.J.エイヤー『言語・真理・論理』を読み終わった。哲学の広範なトピックについての著者の取り扱い方がこの上なく明瞭に述べられていて、たとえ賛同できなくても、それらについて自分なりの見解を持つだけでも、哲学の良い練習になるという点で、哲学の教科書として、非常に手頃な本であると感じた。8:48 PM · Apr 26, 2023

2.翻訳について

A.J.エイヤー『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳)に「言語学的」という訳語が出てくるけど、これ、もしかして、linguisticの訳かな?
6:21 PM · Feb 1, 2023

少々古い訳だからか、linguisticを「言語学的」と訳しているようですね。これはちょっと紛らわしいと思いました。「言語論的」とかの方がいいと思います。

エイヤーは「物理的対象は、感覚内容から論理的に構成されたものである」という命題を「物理的対象に言及する文はすべて、感覚内容に言及する文に翻訳できる」という意味だと言い、それを「文章論的な事実」だと言うが、この「文章論的」って、何の訳語なんだろう?
※辞書によると、「文章論」とは「構文論」とか「シンタックス」のことを指すらしい。なるほど。3:34 PM · Mar 30, 2023

ここも「文章論的」ではなく、「構文論的」などと訳した方がいいと思いました。

3.「形而上学」について

エイヤー、「哲学的分析は形而上学とは関係ない!」とか言うわりに、「物質的対象の概念的分析は、それを感覚経験を表す記号に翻訳することだ」と、今から考えれば、バリバリ形而上学的なこと言ってる。
8:09 PM · Feb 1, 2023

解説を執筆している青山さんも書いていましたが、「形而上学」を除去しているはずのエイヤー自身、相当に「形而上学」的なことを述べていることは注意されてよいと思います。

4.「経験論」と「分析哲学」

エイヤー、イギリス経験論を分析哲学と連続的なものとして解釈しようとして、失敗しているように見える。6:58 PM · Feb 3, 2023

この点も気になりました。「経験論」は分析哲学と相性がいいように見えて、意外とそうではないのかもしれません。

エイヤー本の続き。経験論者にとって最大の問題は、数学や論理学の真理の扱い方。「経験によって検証されない命題には事実的内容がない」と考える彼らは、それらの真理を次の二通りのうちのどちらかだと考えなければならない。⑴数学や論理学の真理は経験的な真理であり、経験によって反証されうる。⑵それらは経験によっては検証できず、事実的な内容を持たない。 エイヤーはたぶん⑵だと思うが、面白いのは、J.S.ミルが⑴の立場を取っていたらしいこと。この下りを読んで、私はクワインを想起した。
7:29 AM · Feb 8, 2023

ヒュームやJ.S.ミルのような古典的な経験論者とエイヤーとの違いは、数学や論理学の真理の取り扱い方にあると思いました。

5.「知覚の哲学」について

今読んでいるエイヤーの本で、知覚の哲学でよく出てくる、例の「貨幣は丸い」問題が出てきたが、今から考えると、これも、認知言語学的な「典型例」の問題のように思える。もっとも、その線で考えようとすると、「様々な視点からの知覚像の集合」=「語の指示対象」のような想定をすることになり、非常に厄介な問題を持ち込むことになりそうだけど。
9:02 PM · Feb 6, 2023

「貨幣は丸い」問題。修士課程の時に、有志で知覚の哲学の読書会をやっていた頃のことを思い出します。「貨幣は丸い」という命題は真であるのか?「丸くない貨幣もある」かどうかが問題なのではなくて、様々な視点から様々な形に見え得るはずなのに、なぜ私たちは「貨幣といったら丸い」と一般的に思ってしまうのか?という問題です。

6.「カント」vs.「エイヤー」

エイヤー「すべてのアプリオリな知識は分析的真理である。」カントに対して喧嘩を売るエイヤー。カントは算術や幾何学の知識がアプリオリで綜合的な知識だと考えたため、時間と空間を直観の形式だと考えたが、エイヤーは算術や幾何学の知識でさえ分析的だと論じることで、カントの主張を退ける。大変キレの良い議論だが、それだけでカントの主張を退けられるのだろうか?と少し疑問も感じた。
2:50 PM · Feb 21, 2023

カントが時間や空間を「直観の形式」だと考えたことは知っていましたが、その動機は知らなかったので、ここはとても勉強になりました。

7.「真理論」について

エイヤーって「真理の余剰説」論者だったのか。
7:21 AM · Feb 24, 2023

「真理の余剰説」では、大雑把にいえば、「Pは真である」と述べることは「Pである」と主張することに等しいとされるのですが、この点に関しては、哲学的にさまざまな反論があり得ますし、私も同意できません。

8.「認識論」について

「感覚内容の性質を直接的に記述する命題が確実なものではない」のは、エイヤーの言う通りだが、それについて彼が挙げている例はあまり説得的ではない。あと、やっぱりエイヤーは「命題に疑いの余地があるかどうかは、命題の種類によって決まる」と考えていて、そこは批判されても仕方がないと思う。
7:24 AM · Mar 16, 2023

エイヤーは、他の論理実証主義者とは異なり、「プロトコル命題」のようなものを認めていないようですね。命題は、経験的命題か分析的命題のいずれかであり、後者は必然的に真であるが、前者は引き続く観察によって検証されなければ真偽は確定しない。言い換えれば、同じ命題が、状況によっては確実なものになったり、不確実で検証を必要としたりすることはあり得ないと。これは、後期WittgensteinやAustinや最近の文脈主義的認識論の信奉者たちが批判している点でもあります。

「合理論vs経験論」の論争に対するエイヤーの評価は概ね妥当なものと思う。経験論は、人間の認識を専ら受動的なものと捉え、その能動的な面を見落としている一方で、合理論は、「知識獲得の過程が直観的であり得る」ことと、「知識を直観によって正当化できる」ことを混同している、と彼は言う。そういえば、昔読んだ科学哲学の教科書に載っていた、「ミルvsヒューエル論争」でも、まさにその点が問題とされていたのを思い出した。
3:23 PM · Apr 9, 2023

ここで問題になっているのは、経験的知識の受動的な蓄積だけで、科学理論が成立し得るのか?ということです。エイヤー的には、それは不可能であり、科学理論の成立には「直観」が含まれるが、だからといって、「直観」だけで理論が正当化されるわけでもない、というのが彼の立場です。理論の正当化には、理論に基づいて結果の予測を行って、観察や実験によってそれを検証する必要があるわけです。

9.「倫理学」について

「倫理的/宗教的命題は、世界に関する何らの事実も表現せず、ただそれを言う人がどのような心的状態にあるかを表現するに過ぎない。」(エイヤー)道徳哲学や宗教哲学は、この主張に対してどのように反論できるだろうか?8:26 PM · Mar 23, 2023

いわゆる「倫理学的情動主義」の立場ですが、これに対して、倫理学的にどのような反論があり得るのか、勉強不足でちょっと分かりません。

10.「自己」について

エイヤーの続き。現象主義は物的対象だけでなく、自己についても適用される。「<自己>について語る命題は、感覚経験に言及する命題に翻訳できる」と彼は言う。しかし、自己と他者の区別を説明する地点に至り、彼の説明はやや苦しくなってくる(ように私には思われる)。彼はそこで、「有機的な感覚経験」という概念を持ち出すのだが、この概念の定義がよく分からない。
8:44 PM · Apr 8, 2023

エイヤーの立場の中で、個人的に最も問題があると私が思うのが、彼の「自己」あるいは「自己意識」についての捉え方です。「感覚経験」の集まりの中には、「有機的」なものとそうでないものとがあり、「有機的」な感覚経験について述べる命題を翻訳したものが、「自己」について述べる命題だと彼は主張するのですが、彼自身、この「有機的」という語を十分に定義できていないように思いました。

11.「バークリー」とか「一元論者」とか

「感覚内容は知覚されなければ存在しない」と「すべての物体は感覚内容の集まりである」という前提から、バークリは「だから、物体はすべて精神的なものである」と結論する。エイヤーはこれらの前提を認めつつ、バークリの結論だけは否定する。その理由は、二つ目の前提は、バークリが考えているのとは違い、形而上学的な意味ではなく、「物体に言及する文はすべて、感覚内容に言及する文に翻訳できる」という言語論的な意味だからであると。納得できないわけではないが、疑問も残る。
7:13 AM · Apr 14, 2023

この議論、ちょっと分かりにくいのですが、「ある対象Aに言及する文が、別の対象Bについて言及する文に、言語慣習的に翻訳できるからといって、AとBが形而上学的にも同一であることにはならない」ということでしょうか? つまり、慣習上、同じだと見なされるけど、実物としては同じではないと? 意味は分かりますが、よい具体例が思い浮かびません。

それはそうと、本書の最後の章で「一元論者」に対する批判が行われているのだが、具体的には誰のことを指しているのだろう? 
エイヤーの説明によると、「一元論者」とは「あらゆる事物の性質は、関係的性質も含めて、その事物の本質を構成しているがゆえに、ある事物について述べた命題からは、他のあらゆる事物について述べた命題が演繹できる。」と主張する立場とのことで、何となく新ヘーゲル主義っぽいんですが。
余談の余談。エイヤーの一元論者批判は結構おもしろい。一元論者の主張の前半部を分析命題だと解釈すると、後半とつながらないし、経験命題だとすると、自然科学の実践と整合的ではなくなると。なるほどと思った。
8:57 PM · Apr 26, 2023

ある事物が別の事物と、単に言語慣習的に結びついているだけであれば(分析命題であれば)、ある事物について述べた文と、任意の他の事物について述べた文が因果的に結びついているとは言えない。また、もしある事物について述べた文が、任意の他の事物について述べた文と因果的に結びついているのならば(経験命題だとすれば)、自然科学的な言明をおこなうことは一切できなくなる。なぜなら、あらゆる事物を考慮に入れることはできない以上、科学的な言明をおこなう時にはどうしても、当面の問題には関係がないと、考慮に入れない事物が出て来ざるをえないが、一元論的な主張によれば、そうしたことは不可能になるからであると。この点は非常に面白いと思いました。

いいなと思ったら応援しよう!