1.全体について
エイヤーのこの本について、Twitterでつぶやいたことをまとめました。本書全体については、以下のツイートの通りです。
2.翻訳について
少々古い訳だからか、linguisticを「言語学的」と訳しているようですね。これはちょっと紛らわしいと思いました。「言語論的」とかの方がいいと思います。
ここも「文章論的」ではなく、「構文論的」などと訳した方がいいと思いました。
3.「形而上学」について
解説を執筆している青山さんも書いていましたが、「形而上学」を除去しているはずのエイヤー自身、相当に「形而上学」的なことを述べていることは注意されてよいと思います。
4.「経験論」と「分析哲学」
この点も気になりました。「経験論」は分析哲学と相性がいいように見えて、意外とそうではないのかもしれません。
ヒュームやJ.S.ミルのような古典的な経験論者とエイヤーとの違いは、数学や論理学の真理の取り扱い方にあると思いました。
5.「知覚の哲学」について
「貨幣は丸い」問題。修士課程の時に、有志で知覚の哲学の読書会をやっていた頃のことを思い出します。「貨幣は丸い」という命題は真であるのか?「丸くない貨幣もある」かどうかが問題なのではなくて、様々な視点から様々な形に見え得るはずなのに、なぜ私たちは「貨幣といったら丸い」と一般的に思ってしまうのか?という問題です。
6.「カント」vs.「エイヤー」
カントが時間や空間を「直観の形式」だと考えたことは知っていましたが、その動機は知らなかったので、ここはとても勉強になりました。
7.「真理論」について
「真理の余剰説」では、大雑把にいえば、「Pは真である」と述べることは「Pである」と主張することに等しいとされるのですが、この点に関しては、哲学的にさまざまな反論があり得ますし、私も同意できません。
8.「認識論」について
エイヤーは、他の論理実証主義者とは異なり、「プロトコル命題」のようなものを認めていないようですね。命題は、経験的命題か分析的命題のいずれかであり、後者は必然的に真であるが、前者は引き続く観察によって検証されなければ真偽は確定しない。言い換えれば、同じ命題が、状況によっては確実なものになったり、不確実で検証を必要としたりすることはあり得ないと。これは、後期WittgensteinやAustinや最近の文脈主義的認識論の信奉者たちが批判している点でもあります。
ここで問題になっているのは、経験的知識の受動的な蓄積だけで、科学理論が成立し得るのか?ということです。エイヤー的には、それは不可能であり、科学理論の成立には「直観」が含まれるが、だからといって、「直観」だけで理論が正当化されるわけでもない、というのが彼の立場です。理論の正当化には、理論に基づいて結果の予測を行って、観察や実験によってそれを検証する必要があるわけです。
9.「倫理学」について
いわゆる「倫理学的情動主義」の立場ですが、これに対して、倫理学的にどのような反論があり得るのか、勉強不足でちょっと分かりません。
10.「自己」について
エイヤーの立場の中で、個人的に最も問題があると私が思うのが、彼の「自己」あるいは「自己意識」についての捉え方です。「感覚経験」の集まりの中には、「有機的」なものとそうでないものとがあり、「有機的」な感覚経験について述べる命題を翻訳したものが、「自己」について述べる命題だと彼は主張するのですが、彼自身、この「有機的」という語を十分に定義できていないように思いました。
11.「バークリー」とか「一元論者」とか
この議論、ちょっと分かりにくいのですが、「ある対象Aに言及する文が、別の対象Bについて言及する文に、言語慣習的に翻訳できるからといって、AとBが形而上学的にも同一であることにはならない」ということでしょうか? つまり、慣習上、同じだと見なされるけど、実物としては同じではないと? 意味は分かりますが、よい具体例が思い浮かびません。
ある事物が別の事物と、単に言語慣習的に結びついているだけであれば(分析命題であれば)、ある事物について述べた文と、任意の他の事物について述べた文が因果的に結びついているとは言えない。また、もしある事物について述べた文が、任意の他の事物について述べた文と因果的に結びついているのならば(経験命題だとすれば)、自然科学的な言明をおこなうことは一切できなくなる。なぜなら、あらゆる事物を考慮に入れることはできない以上、科学的な言明をおこなう時にはどうしても、当面の問題には関係がないと、考慮に入れない事物が出て来ざるをえないが、一元論的な主張によれば、そうしたことは不可能になるからであると。この点は非常に面白いと思いました。