私の教材研究法

はじめまして。ho_anthroposと申します。関東のとある私学で国語を教えている者です。

最近、いろいろと思うことがあり、noteというものを始めてみました。自分が国語教育について日々考えていること、ちょっとした思いつきなどを書いていこうと思っています。

今回は私の教材研究のやり方について書いてみようと思います。

例えば、俳句の授業で、山口誓子の

(1)夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる

という句の解説をするとします。指導書によると、この句の意味は次のようなものです。

(2)真黒い汽缶車が蒸気を吐きながら徐行してきて、操車場の構内の夏草が繁る手前で重量感のある車輪の回転をゆっくりと停止させた。

この(1)の句と、それに対する指導書の解釈(2)を読み比べてみましょう。すると、(2)には(1)には書いていない情報がいくつか含まれていることに気づきます。それは

①「汽缶車」という句中の語は、「蒸気機関車」を指していること。
②「夏草」が操車場の構内にあること。
③車輪の回転の重量感。

の3点です。指導書には普通、以上の3点がいかにして(1)から導出されるのかは書いてありません。しかし、学校で生徒に教える以上、ここで止まるわけにはいきません。①〜③の情報を(1)の句からいかにして導出できるのか? そこまで教えるべきです。

まずは①から考えていきましょう。「汽缶車」という字は一般的な国語辞典には載っていませんが、インターネットなどで調べてみると、「蒸気機関車」の項に

(3)第二次世界大戦の頃までは「汽罐車」(きかんしゃ)という表記も用いられた(「汽罐」はボイラーの意)。(wikipedia)

という記述があるので、この(3)から「蒸気機関車」を指す語であると分かります。

次に②についてですが、これを導出するためには、「蒸気機関車」がどのようなものであるか?に関する常識的な知識(認知言語学では「百科事典的知識」と呼ぶそうです。)が必要になってきます。それは次のような知識です。

(4)蒸気機関車は、線路の上を走行し、駅または操車場に到着すると、そこで停止する。

蒸気機関車の車輪は「夏草に」「来て止まる」わけですから、(4)の知識から、この「夏草」は「駅あるいは操車場の近くの、線路の傍に繁茂している夏草」であることが分かります。(指導書では「操車場」となっていますが、これは「駅」でも構わないでしょう。)②の情報はここから導出することができます。

問題は③です。蒸気機関車の車輪ですから、実際の重量が重いのは当然です。しかし、問題は「重量感」(重みのある感じ)ですから、これだけでは導出できません。

ここで注目すべきことは「〜感」という言い方です。「〜感」という言い方は、「主体にとってどのように感じられるか」を表す言い方ですから、「車輪の回転の重量感」と言うとき、表現されているのは

(5)車輪の回転を見ている主体にとって、それはいかにも重みがあるように感じられた。

ということです。この(5)は一体いかにして導出されるのでしょうか? これは「主体にとって車輪の回転がどう見えるか」ということですから、主体の「視点」の問題も関わってきます。

蒸気機関車が蒸気を噴き出しながら、徐行して停車する。主体がその様子を遠くから見ているのだとすると、この句のように「夏草」に焦点を合わせることはできないでしょう。「夏草」に焦点を合わせるためには、それに見合うように、蒸気機関車の車輪を「クローズアップ」する必要があります。(ちなみに「クローズアップ」の辞書的意味は次のようなものです。)

映画・テレビ・写真などで、被写体またはその一部を画面いっぱいに大きく写し出すこと。大写し。(『明鏡国語辞典 第二版』)

とすれば、この主体にとって蒸気機関車の車輪は、想像上の画面いっぱいに大写しにされているはずです。そのような車輪の回転は、見ている主体にとって、まさに(5)のように感じられることでしょう。

以上、教科書の本文(1)から、いかにして、指導書の解釈(2)が導出されるのかを考えてみました。まだまだ不十分な点は多々ありますが(特に③に関しては非常に曖昧です。申し訳ないです。)、一応これが私の教材研究のやり方です。

ご批評、ご感想をいただけたら幸いです。

いいなと思ったら応援しよう!