9月23日

9月23日

人類の進化がゆるやかな右肩上がりではなく、指数関数的な動きをしていることは多くの人が理解している。

長い狩猟採集の時代、農耕革命、科学革命、産業革命、IT革命、歴史の中で時代の転換点が訪れるスパンは、確実に短くなっている。地球に誕生した生命体の中でも特殊な存在である、人類は今、何かしらの臨界点のような場所に居るのかもしれない。それはシンギュラリティとも呼ばれている。偶然にも私はその時代を生きている。寿命までの間に、さらなる何かを経験する可能性が高い。

AIの事は毎日のように考える。既に始まりつつある人工知能革命。次の時代へと変わった後、私たちはどんな暮らしをするのだろうかという疑問。ほぼ全ての職業がAIとロボットに代替される世界で、人間の位置づけはどんなものになるのか。おそらくすぐ先の未来であるのに、はっきりと想像が出来ていない事への不安。

私の親の世代は、なんとなくアトラクションのようにそれを体験して寿命を終える。一方で、私自身はもう少しディープな関わり合いを持って、その時代と接する事になる。2020年代に生まれる子どもたち、という視点で見れば、誕生から数十万年の全人類と「別の」存在になる可能性もある。身体を使う事も、頭を使う事も、はるかに及ばないモノと共存していく。「親・子・孫」の3世代、人間一個体の誕生から死までの期間、各世代が同時に存在出来るその期間内に、共通理解を持つことが難しくなる程、流動性は激しくなってしまった。


書く事には可能性がある。


それは我々、有機的な生命体が自ら考え、恐れ、高揚し、学び、生み出していく情報である。その事が、人工知能の作るそれとは異なる点。

書き手としては、情報に対して受動するだけではなく、咀嚼して、プールして、アウトプットするという行いが、自分の再認識の場となる。


職業として文章家が残るのかどうかは、わからない。いずれ消えてしまうとしても、消え去る順序的には遅いのではないかとも思う。ただ左から右へ流すようなものは全て代替されていく。しかし咀嚼して語る事を続けている限り、処理装置はかなり複雑な、ある意味で神秘的な媒体であるからして、人工的になかなか再現し難いものだと信じている。


文章に限った事でない。映像も写真も絵画も、制作ツールの使用方法や使用技術は劇的な変化に飲み込まれるとしても、「何を作るか」は飲み込まれにくい。売れる作品には共通項があり、ビッグデータでそれをさらえばAIに学習させる事は出来る。でも、制作方法が退屈なものだと気づいた瞬間に作品は魅力を失う。新しいものを面白いと思う人間の習性がある限り、有機的なパーツを無くして、たぶん感動的なものは作れない。
と、言うのは希望的観測で、実際には全く予想がつかない。どんな未来が来るのか。そこで我々はどんな暮らしをするのか。


個人的にはこれほど変化の激しい状態は好きではない。おそらく変化は、誰かが望む事で生み出された流れではないのだろう。誰もが変化に疲弊している。それでも変化を止める事は出来ない。変化を止める事もまた「自然的」ではない。自分なりの「変化」との付き合い方を、探していくしかない。


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