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【初めて書いた小説】海底の人魚

 静寂の色に囲まれて海底に一人揺蕩う。わたしは天から、ふわりふわりと仄かな光を纏って降り注ぐマリンスノーを眺めることが大好きだった。
 時は舞い落ちる雪よりも悠然と流れてわたしの心に層を成し、いつしか身動きがとれないほど、柔く優しく砂上の楼閣を築いた。絶望とも希望ともつかぬ時間の中で、それでもわたしは自分は幸せなのだと……そう信じていた。あの嵐の夜までは。

 常ならば、天は仄暗く光を通して飽きること無く波打つ。それがどうだろう、その日は天は光を通さずあわたつ。
「あぁ、嵐の季節なのね」
 まだ幼く浅い海で過ごしていた頃、わたしは定期的に訪れる移ろいに翻弄される度に、いつしかこの深く静寂色に包まれた海底に落ち着くようになったのだ。

 こんな日はふわりふわりと漂う雪も鳴りを潜めてしまう。退屈に思いながら天を仰ぎ見ていると、背中に触れるモノがいる。こんな海底を好き好んで根城にしている同族には、まだお目にかかってはいない。いぶかしんで振り返ると、そこには鮮やかな夏色の小魚が気を失っていた。
「まぁ、大変」
 わたしは雪のように舞いながら落ちていく小魚をそっと受け止めた。小さな脈動に身が震える。思わず振り落としてしまいそうになりながら慎重に近くの岩場に横たえた。
「……大丈夫かしら?」
 その問いに応えるように、小魚はぷるりと身じろぐ。
「生きているわ」
 何に対する確認なのか、わたしは独りごちると意味もなく頷いて小魚の回りを泳ぐより他に術ベを持たない。この時ほど悠然と流れる時間に焦れたことはなかった。小魚を置いた岩場を何度回っただろう。

 濁った色の眼が不意に動き、徐々に明るくなっていく。緩慢に動いていたエラが、規則正しく大きくはためいた。
「……ここは……天国なのかな?」
 間延びした声にわたしは耳がいたくなった。この海底で音をたてるのは、せいぜい自分の吐き出す泡あぶくと細ささやかな独り言だけだったから。
「雪みたい……」
 言うや否や小魚は飛び上がり、わたしの回りをくるりと一周すると静寂よりも深い色をした目を輝かせた。
「やぁ! 君はだれ!?」
「……だれ?」
「僕はハンス!」
 ハンスと名乗った小魚は、左右にせわしく行き交いながらわたしを覗き込む。静寂を切り裂くような鮮やかさでリズミカルに。
「君の名前は? なんて言うの?」
「……エイラ……」
 久しく名乗っていなかった名前を思いだして、わたしは俯いた。
「エイラ! 君にぴったりだね」
 きりもみ回転をしながらわたしの目の前に飛び出してくると、ハンスは楽しそうに笑った。
「だってそうでしょ? 白銀の肌に薄青のヒレ、正に雪のようじゃないか!」
 落ち着き無く旋回しながら、ハンスはまた笑った。
「でも……わたしは……」
 笑うハンスから顔を背けると、ゆらりと視界に紅が走った。
「こんな髪色だから雪エイラだなんて……」
「僕と似てるね! 僕は南国の花のように鮮やかだってカモメのジョンが言ってたんだ!」
 わたしと似ていると言ったハンスは、わたしよりも鮮やかな美しい色で、ひらひらと自慢げにヒレを振った。一転して取り澄ました表情で胸を張るハンスの仕草が滑稽で、わたしはつい吹き出してしまう。
「笑った!」
 弾む声をあげてハンスは宙返りをした。お得意と見えるきりもみ回転をして、わたしの目の前に再度現れる。
「エイラが笑った!」
 わたしは気恥ずかしくなり視線をさ迷わせる。
「とてもキレイだ! エイラ、君に会えて嬉しいよ! 本当は僕、今日はさんざんだったんだよ。なのに君が笑ったから全て素敵になったんだ!」
 言いながらわたしの回りを旋回するハンスは歌うように話し続ける。
「ねぇ、聞いてくれるかい? 今日の嵐は最高に最悪だったんだよ! まだ嵐が始まるには早いじゃないか。なのにこの嵐! 僕はこの通り体が小さいから波に揉まれちゃってさ、なんとか建て直そうと思ったんだけど、どんどん渦に飲まれていちゃってさー。気がついたらこんなに深いところに来ちゃったんだよ。でもね、君に会えた! 最悪だった今日が最高に素敵な日になったんだよ!」
 ハンスの津波のような言葉にわたしは気圧けおされて二の句が継げずにいた。

「ねぇ、エイラ。この嵐が収まるまで僕はここにいても良いかい?」
「えぇ、それは問題無いけれど、あなたは大丈夫なの?」
 質問の意図が理解できないのかハンスは揺れなからヒレをはためかせた。
「ここはあなたが居たところより深いわ」
 あぁ、と納得したようにハンスは宙返りをして笑った。
「優しいねエイラ。僕は大丈夫だよ!」
 お得意のきりもみ回転を繰り返すハンスを見て、わたしは目を回してしまうのではないかと心配になる。小魚とはこんなにも命に満ち溢れている物なのだろうか?
「エイラ、お話をしよう。君の事が知りたいんだ」
 ハンスは声を響かせる。時が止まっているかのように感じる海底で、それは静寂の色を塗り替える。わたしにはとても新鮮で天から落ちる雪のように引き付けられた。
「君はいつからここにいるの?」
「わたしが、もっと幼かった頃に……」
「僕みたいに小さかった? 君の小さな頃にも会ってみたかったな。今も素敵だけど小さな君も、きっととっても可愛いんだろうな!」
 褒められるどころか、会話することにすら慣れないわたしの言葉を引き出すように、ハンスの口から心地よい音色が紡がれる。
「どうしてここに住もうと思ったの?」
 ハンスがわたしの回りを旋回する。そのカモメのジョンが例えた南国の花のような軌跡を目で追わずにはいられない。
「……あなたと、同じ。波に飲まれてここにたどり着いたの」
「同じ! 僕たち同じ身の上だね!」
「わたしたち、おなじ……」
 静寂の色と降り注ぐ雪の仄かな光の他になにも無いこの海底に、ハンスは暖かな音色を振り撒く。

 わたしは生まれてはじめてこの耳に、胸に鳴り響くハンスの声に息苦しいほどの喜びと、それを上回る恐怖に震えた。絶望とも希望ともつかぬ時間の中で、それでもわたしは自分は幸せなのだと……そう信じていた 今までのわたしは、もう泡のように消えていった……

 いつのまにか、静寂の色があたりを包む。鳴り響いていたハンスの声が、気配が感じられない。わたしは戦慄おののきながらあの花のような姿を探した。
「ハンス……ハンス」

 花は落ちていた。

「ハンス……?」
 花はひっそりと落ちていた。
 わたしはそれしか言葉を知らぬように繰り返す。
「ハンス……」
 花は……静かに落ちていた。その姿は静寂の色に溶け込むように見えた。
 静寂の中にあっても先を見通すことが出来たわたしの目は、いつしかその視界をぼやけさせていく。
「……ハンス!」
 花を、ハンスを見失ってしまうかもしれない。わたしは力の入らぬ体を引きずりながら彼の側へと向かった。
「ハンス!」
「……きみは、本当に雪のようだね……」
 その体に見合った小さな声で、ハンスは囁いた。

 生きている!

 その声を聞き漏らさぬようにわたしは更にハンスに身を寄せる。
「……その姿も、涙も……舞い踊る雪……だ……」
  苦しい息の中、彼はそれでも微笑もうと、わたしを安心させようとしている。
「ちょっと……水が合わないだけだよ……」
 浅く早い呼吸を繰り返して彼は言う。あぁ、そうだ。歌うように彼は言っていたではないか、ここより浅く暖かい海に住んでいたと。わたしは意を決すると、彼をそっと持ち上げた。
「ハンス、わたしがあなたを助けるわ」
 先程より力を失ったハンスは、わたしの声に応えるようにヒレをはためかせた。

 急がなくては……

 急がなければならないのに、わたしは泳いでは止まりを繰り返した。彼を浅い海に帰したらその後は?
 わたしはまた、あの静寂に包まれた海底に帰るのだろうか?
 彼の声が響かない静寂へ。

 ハンスはただ浅い呼吸を繰り返している。迷っている時間はないと言うのに……
「エイラ……無理、しないで。きみは……深い海に住む……」
「ハンス! わたしは自分の肺が張り裂けたってかまわない!」
 反射的にそう答えていた。この身が裂けようとも構わない、そんな事ではないのだから。わたしが恐れているのはあなたが居ない静寂。ただそれだけ。
 無我夢中で水を蹴りあと少しと言うところで、わたしの体は痙攣を始めた。

 ハンスは海底にいた頃より僅かに色を取り戻しつつある。ここまで来れば、きっと彼ならまた軽やかな身のこなしを取り戻すだろう。わたしは安堵の息を吐き彼を上へ押し上げた。

 彼の軽い体は波にさらわれて上がっていく。対してわたしの大きく重い体は、ゆっくりと舞い踊る雪と共に元居た海底へ向かった。

 正にわたしは今、雪となった。

<2023年REALITY文芸部小説コンテスト参加作品>
テーマ「雪」
文字数 4000文字以内

「書けたら書くわ」と全く書く気が無い返事をしていたにも関わらず、応募締め切りの12/31に思い立ち生まれて初めて小説を書き上げました。
感想をいただけたらとても嬉しいです!


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