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留学記⑤ 寮長日記

やっと大学二年生になり、一年生寮の上級生リーダー的ななにかをやっている。

アメリカ大学ことばで、RA(Residential Advisor)とかCA(Community Advisor)とかという。寮の管理人というよりは、一年生のメンターとしてそこにいる意味合いが強そう。一年生と一緒に彼らの寮に住んで、大学のアドミン(おとな、学生自治の天敵)との橋渡し役を務めたり、大学生活に適応するための手伝いをすることが求められる。有給だが、一応24時間仕事が入りうるというタフな仕事でもある。けれど、人のためになっている自覚がもてるこの仕事は、とっても好きだ。

日本ことばでいうと、これはアメリカの大学に「後輩ができる」こと。アメリカの大学で、日本の高校あがりのF-1ビザな奴が、先輩きどりで三ヶ月前までアメリカの高校生だった生徒たちに頼られる。このミスマッチ感がとてつもなく面白いと、高校の部活フェーズ以後、俯瞰して仕事ができるようになった私は常に面白がっているのだけど、現実に頼られたときは、まだまだだなぁ、と思うことばかり。

入寮が終わって数日後、コモンスペースで作業をしていると、涙ながらに後輩が近づいてきて、話したいんだけど時間あるかと聞かれた。もちろんそのためにコモンルームにいるのだから、と話を聞いてみると、完全に新しい環境に押しつぶされていた。ホームシックというか、帰りたいわけではなく新生活の覚悟とプレッシャーにやられたみたい。自分で色々やろうとしたけど、ついにメンタル壊れて、、と近づいてきてくれたのだった。こうしたわずか一年しか年の違わない日本人に自分から来てくれる学生のほうが本当にすごいが、そんな後輩ばかりではないのは知っているので、自分から気付けなかったことをまずは悔やむ。こういう適応障がいのようなものは、自分が最も救いたい感情としてずっと頭にあるのだから。

いずれにしても、こうしたときの自分の手法の乏しさには辟易する。咄嗟にうまく返せない。適切な質問をして相手の気持ちを言語化してあげて、それをすべて受け止めて共感を示した上で一緒に対策を考える。。みたいなイメージだけは脳内にあるのだけど。こんなのは言語力よりも傾聴技術の不足じゃんと冷静になってからおもう。カウンセリング101落単。

その後も、ニューヨークから来たこの子に対して「去年、ここに初めて来たとき僕も長らく辛かったから、辛い気持ちを責めるべきじゃないよ」みたいなNGを連発する。私が日本から来たことを彼女は知っているし、我々去年の一年生はコロナ禍で一番きつかったというのは周知の事実なので、これではなんの慰みにもならん。間違って自分の方が辛いアピールみたいなことをしてしまった自分を呪う。

久々に良い先輩のペルソナを求められた私は予想以上にグダグダであったけれど、最終的にその子は笑って「You're a lifesaver!」と感謝して帰っていった。ほんとにこの人の方がすごいしありがたい。先が思いやられるのは私。

アメリカ大学の一年生寮と多文化性

私は、多文化なスペースが好きだ。一様な空間が得意じゃない、ともいう。一様性からくる居心地の良さにあまり共感できないので、男女の偏りがすごい空間とか、国籍の偏りがすごいスペースとかに長くいることができない。日本にいたいのに、日本のコミュニティと相性が悪い。吹奏楽部や東大のあの感じにフィットしないのは、大変悩ましい問題だった。

アメリカの大学の一年生寮という場所は本当に神だ。基本的に友達が多くない状態で入学し、ルームメイトと部屋は大学に指定されるのだから、それはそれは奇跡のように人が混ざる。二年生になって以降みたいに、というかすでに彼らが寮の外ではそうしているように、人種と所得で固まった集団に支配されていないのが一年生寮のとっても美しいところ。

いま、うちの一年生寮の中で一番大きい建物(居住者120人ぐらい)の一角で、20人弱の一年生の「後輩」を持っている。これがまた、なかなか多様でおもしろい。人種、性別、性的指向、出身地、国籍、あたりの社会的構築物は、20人もいれば軽々とねるねるねるねになる。グルテンフリーなどの食制限がある子もいるし、精神的安定のためにペット(子犬、かわいい)と一緒に住む後輩がいたり、僕はカトリックだからとコモンルームで毎晩聖書を読んでいる後輩がいたりする。なんて楽しいんだろう。

もちろん、みんなで一緒に出前でも取ろうとなったときに個別の食の制限は一手間かかるし、火事などの災害時の犬の対処を頭の片隅におく必要がある。コモンルームで騒いでる酔っ払い学生とカトリックの子は共生が難しい。ピザを頼むときは普通のピザ以外に、ベジタリアンかつグルテンフリーのピザを一枚頼むのではなく、ベジタリアンとグルテンフリーのピザをそれぞれちゃんと別で頼む、というのは今回の渡米で学んだ一番プラクティカルなこと。マイノリティをマイノリティとして接しない。面倒くさそうだがそれでいい、それでも私はこういう空間にワクワクする人だ。

我々CAの週例ミーティングでは、いろんなイシューがでてくる。おぉそういうことも問題になりうるのか、と無知が解消されていって、自分の視野の狭さを思い知らされる。ここらへんも、この仕事が好きな理由だ。なかでも、多文化共生においてジェンダーの問題は避けて通れない。いわんや共同生活である。でっかいイシューだ。

日本的な感覚からはいまだに信じられなさそうだが、こちらの大学は、基本的に男女混合のフロアだ。部屋同士は分けられているけれど、普通に部屋同士は隣り合う。固めてしまえば簡単なのに、というのはいかにも日本的な官僚主義の考えで、固めてしまえば居心地が悪い学生がたくさんいるのである。それは例えば、LGBTと言われる人であったり、より広義にノンバイナリーの人だったりする。あるいは、宗教上あるいは自衛上の理由で、女性だけのフロアをリクエストすることもできる。

まず、男女混合フロアのバスルーム(トイレとシャワー室)をどうするか。男女で分けてしまうと、ノンバイナリーな人たちの居心地が相当悪くなるので、ジェンダーニュートラルのバスルームにすることもできる。しかしスペース上の都合で、フロアには二つしかバスルームがないとする。どうする?

男性用とジェンダーニュートラルにすると、女性がジェンダーニュートラルのバスルームを使うことになり、そこはニュートラルの定義上、男性が入ることを禁じ得ない。これは女性にとっては怖くて使いにくいし、安心できない環境だろう。そうなると最適解は「女性用とジェンダーニュートラル」だけれど、そうなるとジェンダーニュートラルが≒男子トイレと化し、結局ノンバイナリーの人々にとっては男女で二分したのと変わらない状況になってしまう。。。(つまりバスルームが想定された性別の数だけしかないのが問題の本質である)

ミーティングでこの議論が展開されたときほど日本との差を感じたことはないかもしれない。日本人などのタカ脳はここまで聞いてばっさりと「めんどくせえ」と思う。これをポリティカルコレクトネスというか、寛容な世界だと言うかは任せるけれど、すべての人が少なくとも安心して、限られた公共の施設を使えるようにするポリシーは悪くないよね。

悪ではないどころか、こうした配慮は切実に必要だと最近考えるようになった。大学生の男女の共同生活である。女性やLGBTの学生には常に危険がつきまとう。アルコールの入るパーティーのような場では、酔った状態の新入生に、それを利用したそのパーティーの主催側の上級生がセクハラをする案件なんてザラに起きてしまう。日本の飲み会のように、性的快楽のために睡眠薬をはじめとする致死性のある薬物を盛るようなやつもいる。こういった事案に(夜中1時に)対応するのも、仕事の一部である。

先日、顔も知らない上級生からセクハラ被害にあった私の寮の新入生が、友達に連れられて泣きながら帰ってきた。こうした場合、大学の上の方に報告する必要がある一方で、当面の彼女の精神的介抱が急務になる。こうした場合も、自分のアイデンティティに向き合わなければいけない。男一人で対処することは明らかに不適切。結果的に同じ寮の同僚(女)と三人で、深夜2時ぐらいまで我々はおしゃべりをしていた。こうしたときに、もっと気持ちが落ち着く言葉を(特に英語で)かけられない自分と、自分の男性性と、とりあえずコモンスペースから水と毛布を持ってくるぐらいしか頭が回らない自分は、あまり好きじゃない。

そんな状況に置かれたことのない日本人が大多数だろうが、被害者が震えながら、泣きながら絞り出す言葉は刺さる。

Men are trash. It's not hard - just don't be shitty. What I hate about being a women is that men feel like they can take advantage of me at their will - they only see us as objects for their pleasure.
I have to be more careful. It sucks that the responsibility to be careful falls on women.



たしかに、この仕事はめんどい。ほんとにめんどい。こんなにめんどいから多文化性を諦める、と勝手に自分で反動を起こすことは簡単だ。

でも、この仕事をしていて改めて思う。多文化性というのは状態なのだ。D&I(ダイバーシティ&インクルージョン)のDの部分は、すでにそこにある。そこにあるDに対して、同質化する努力ではなく、いかにIするか。そう、本当はIに懸かっているのであって、日本に多様性がない、というのは、多文化性への感受性があまり低いだけではないだろうか。

そう考えると、ほんとにめんどいこの仕事が楽しいただ一つの理由は、後輩を前にして親バカになる普遍的な(?)人間心理なのかも。ただでさえストレスフルな大学入学という節目を迎えた一年生たち、一人一人がすごく辛くて面白い人生を戦っている。もう何人が泣くところを見ただろう?そのたびに無力さは感じるけれど、少しは人のためになれているから、もうちょっとだけ、というかもうずっとだけ、人と向き合うことは続けていく。それがたとえ、毎週300ページは読んでいる課題文献漬けの日々であったとしても、続けなければいけないのだと思う。

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