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ノンバイナリーな言語

ジェンダー代名詞というものがある。

知らない人は、英語圏に行く前に知っていて損はない。私も去年、大学に入ってすぐのオリエンテーションで初めて知った。7年前に私がアメリカにいたときには、まだアメリカも文化としてそこまで進んでいなかったのだ。たいてい、こういったプログレッシブな概念は数年おくれて日本にもやってきて、この場合多少普及しはじめたのが去年あたりだったわけだが、日本でHeやSheというように他人を三人称で言うことは、昔は少なかったのだろうと思う。いま私なんかがよく彼とか彼女とか使うのは、HeやSheをみんなで和訳して使っている用法のような気がする。かといって、日本にいれば無視していい文化なはずもないことは、以後読んでいただければ分かる。

まだジェンダー代名詞がなんであるか言ってなかった。こちらの定義を引用する。

ジェンダー代名詞とは、自分を呼ぶときに使って欲しい代名詞のことで、自認する性別になります。(https://globe.asahi.com/article/14418833)

要は、性自認が男性であればHe/him、女性であればShe/her、その二分論に束縛されたくない(Nonbinaryノンバイナリーという、bi(2つ、bicycleのbi)で分けられない、の意)と感じればThey/themを使うという理解がなされている。もし、ノンバイナリーだけどどちらかというと女性かな、、みたいなときは、She/Theyのような自己紹介もかなり頻繁に聞く。ジェンダーが流動的であり多元的なグラデーションであることを、とてもよく示しているようにみえる。ちなみに、宇多田ヒカルさんなんかはノンバイナリーと「カミングアウト」している(この発想の違和感は後に伝える)。


ここまで書いたことは、アメリカ社会のこっち(リベラル)側を生きている人には少しずつあたりまえの知識となりつつある。こうした取り組みのおかげで、私の大学なんかではもはや少数派にあまり感じないほどにノンバイナリーな人たちがいる。ちゃんと遊べるぐらいの友達の中にゲイが(複数)いるのは、まだまだ日本で得にくい経験なので正直嬉しい。パンデミックのある世界に我々は生きているので、Zoomの名前表示欄で名前の隣に()で書くことも多い。うちの大学の自己紹介は、一番に名前、二番にジェンダー代名詞、が定型だ(私はまだまだ、ときたま忘れてしまう。最後に付け加えることもあるが、そうするとなんか変じゃない?あ、そういえばHeね!とか言うのはなんか男性性の主張が強くて嫌だ)。

日本人の感覚としては、めんどうくさい、と思うのだろうか。この文化を馬鹿にしている声は比較的頻繁に聞く。インスタがプロフィールにジェンダー代名詞を記載できる機能を今年の初め導入したが、日本人でこれを使っている人がどれだけいるだろう?ちなみに、大学から送られてくるメールに頻発するため、この一年の間に親(日本人)にこの概念を説明する機会があった。感想は、メールに返信したいときに名前だけじゃHe使えばいいかShe使えばいいか分からんときあるから便利だね、というとてもマテリアルな捉え方だった。なるほど、めんどうくさいばかりじゃない、確かに実用的な側面もある。

ただ、これは自分で呼ばれ方を決めていい、という自由(個人)主義的な人権思想に基づいた文化である。他人からみて便利とか不便とかいうものではないはずだ。でも一方で、私はこうも思うのである。HeとかSheとか言っている人はみんな聞き流すが、Theyという自己紹介が発せられた瞬間、「お!この人は間違えないように要注意」と無意識にみんなでマークすることを助長しているだろう?これはジェンダー代名詞(いまのリベラルな概念ではなく、単純に単語としてのHeとかShe)というものを発明し、そしてそもそも言語に性別の概念を持ち込んだ前近代社会の圧倒的欠陥である。呼ぶ側としても、Theyと呼ぶことによってその相手がLGBTQ+であること、すなわち目の前の相手のマイノリティ性を確認することになるのだ。Theyが浮く。一番包括的であるはずのTheyが浮くのは、ちょっと問題であるとおもう。

言語のジェンダー性について付け加える。アメリカでは、中南米出身の人をまとめてラテン人、というすんごい乱暴なまとめ方がなされる(事実、ブラジルからやってきた人はメキシコからやってきた人と括られても、と違和感を持つらしい。そもそもポルトガルの植民地だったのだしラテン人というのは単純に間違っている)。その際、スペイン語は性別によって語尾を区別する言語なので、Latino(男性)かLatina(女性)かの選択を迫られることに気づいた人(だれか知らんけど)が、じゃあ言葉自体ノンバイナリーにします!!と宣言して、Latinxと造語した。これもかなりこっち側では普及しているので、アメリカにくる人は知っておくといい。読み方は、ラティンエックス。

ちなみに、同じジレンマに直面するのはフィリピン人も同じだ、というか元々スペインの植民地から米西戦争でアメリカの植民地になったのだから必然だ。Filipino(男性)、Filipina(女性)と分けられるが、私が知る限りまだFilipinxという言葉は同程度まで普及していない。もうちょっと時間がかかるだろうか。この問題がほんとうに植民地主義だなぁと実感するのは、元来のフィリピン語は性別による言葉の変化がないと知ってからである。

言語関係で時間がかかるといえば、日本語の「くん」「ちゃん」「さん」がジェンダー代名詞問題に相当するやつで、これもなかなか無くならない。彼とか彼女とかよりも、名前呼び捨てや「あの人」で呼ぶことが多い日本語において、名前の末尾につけるこの敬称っぽいやつが厄介である。共学では、先生が生徒を呼ぶときに「くん」「さん」で区別することが多いのではないだろうか。そもそも制服を着ているのだからバイナリー(男女二元論)に押し込まれているわけなので、そこが解決されたところでもっと根本的なところから間違っているのだが。全員「さん」で統一しようぜという話は、私の母校(日本の高校)で社会系学生団体を運営する先生約一名がずっと唱導しているが、まだねばっこい他のコンサバ教員たちが直してくれないらしい。

学校というトピックでつなぐ。性別で分けられた学校という文化が存在する。日本でときたま議論になるが、女子校という文化は女性優先車両とかと一緒で、女性がマイノリティである限り必要な制度だという理解が支配的である(ここでのマイノリティとは、単なる少数派ではなく、社会的弱者であるという意味も込めて使っている)。なにもしなけりゃ社会全体が男性優先なんだからアファーマティブアクション(積極的是正)して然るべき、というこの主張は真っ当だと思う。では、男子校女子校において、ある生徒の入学可否(合否ではなく)を決めるのは、生物的性か、それとも社会的性か?

疑問を提示しておいてなんだが、日本の場合はほとんどの場合前者ではなかろうかと勝手に推察する。アメリカで性自認(Sheを使う)で線を引いている学校の場合、自分が自分のことを女性だと思っていれば女子校に入学できる。一見自分で権利のあるなしを決めていいようだが、女性だと自分を決めつけなければ入れない、ということでもあるんだろう。結局バイナリーなので批判があるのは当然だ。マイノリティである女性の自由と、さらなるマイノリティであるLGBTQ+の自由を同時に担保できない、というなんとも難しいジレンマを抱えている。男子校に関してはもうめんどいので触れないけれど、政策として少しずつなくなればいいと思う。男子校に入ることがほんのすこしでもステータスになる世の中は間違っている。


そんなわけで、このジェンダー代名詞というやつはプログレッシブでありつつもまだまだ欠陥だらけの文化である、ということがこの記事の趣旨であった。常になんだかなぁと違和感を持ちながら、もっとノンバイナリーな言語用法が発達したらいいねぇ、とだけ考えていられるのは、単に私があまり不利益を被っていない特権的位置にあるからに他ならないのだが。「ノンバイナリーであることをカミングアウトする」というのは、我々バイナリーでしか考えられない人の浅薄な言い方な気がする。


最後に、いまキャンパスで同じ仕事をやっている人で、これは!と思わず手を打ちたくなったジェンダー概念の持ち主がいたので、紹介する。

見た目や服装は、かなりオシャレで佳麗な感じ。髪はショートカット。その人の自己紹介の滑り出しはこうである。

Hi I'm --, and my pronouns are whatever you want.

Whatever。Whatever!

これは一見不可解な言動に映る。自分の性別を決めていいという「自由」を、自ら放棄したのだ。相手に決めてもらうことなど、勇気がなければできない。

しかしこの発想の革命的なところは、自分が呼ばれるときに使われるジェンダー代名詞の選択を、呼ぶ側の人間に完全に放り投げているところである。「もし私が女性に見えるなら、Sheで呼べばいいじゃない。男性に見えているなら、Heで呼べばいいじゃない。中間ぐらいに見えているなら、They使えば?」と、挑発的に相手にその選択を促す。促された相手は、会話の流れでどう頑張っても「選ぶ」という行為を選択せざるを得ない局面に遭遇する。

英語を喋るとき、ためしにジェンダー代名詞を使わずに喋ってみてほしい。最近、仕事上の都合で自分の後輩を指すときに、名前を明かさないままジェンダーニュートラルな言語で話すことが望ましい場面に多く出会う。恐ろしく難しいことだ。この場合も、当人がいる場合は特にきびしい。さきほど言ったように、Theyを使ってしまえば、「ああこの人は私のことをセクマイだと思っているんだな」というあまり芳しくないメッセージになる。HeかSheを使えば、「あーあそうやって決めつけるのか君は」と思われる。このマジックが分かっただろうか。促された相手は詰んでいる。逃げ道がない。

さらに言うと、ここでこの人は選択を一任することによって相手を性の二元論の落とし穴にはめ、自分は最も「自由」になっている。そう、Theyよりも明らかに自由だ。自分で決められる自由、よりもそもそも「誰かが決める」という発想が間違っていて、「決めなくていい自由」を取りにいく。素直にこれいいな、と思った名答だった。

つまり、ノンバイナリーな革命とは、ジェンダー代名詞ではない。ジェンダー代名詞は現状をちょっとだけよくしたReformist(改革論)だ。このWhateverと答えた人は、よりラジカルなAbolitionist(全廃論)である。ジェンダー代名詞が一切合切なくなったとき、人は  ー  ただし言語という側面に限って、だが  ー  性からの解放を体験することができる。性からの解放、それはその文字通り、みんなで性にバインドされない、すなわちノンバイナリーに考えてしまえばいいのである。


【写真】大学各所にあるトイレ。ジェンダーインクルーシブな上に、車いすで使えて、おむつが替えられて、マスクしろよ?って言ってる。これと、日本のso-called「多目的トイレ」、比べると面白い。

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