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お子さんが夢中な事はなんですか
3人の子どもたちが皆18歳を超えた。
子育ての中で印象深いのは
子どもたちがそれぞれ何が大好きだったかということ。
わたしは誰かと話していて、
お子さんの話がでると、ついきまってきいてしまう。
「お子さんが夢中なことはなんですか」
すると、たいていお子さんの好きな事を、
それこそお母さんが夢中で話してくれる。
それを聞くのがとても楽しい。
わたしは自分のこどもを育てている時
「夢中になっている事」はなんだろうということにとても関心があった。
なぜなら、自分が今大好きなことは、
幼少期の頃から変わらず大好きだったことで、
それらが、事あるごとにわたしの心を支えてくれてきたという思いがあるのだ。
たくさんの経験を経てもふるいにかけられ、結局こうやって「大好きなこと」として残るのかと
不思議に思うとともに、
人間はそうできている、のだとしたら、
夢中になれることを心おきなく満足いくまでできる人生は幸せだろうと考えた。
だから
彼らが心底好きなもの(ちょっとだけスキはいっぱいあるが)をみつけて、応援してあげれたらいいと思っていた。
なるべく親の意見ははさまず、
自己申請をつらぬいた。
自己申請とは、全部自分で決めていくというもので、幼い頃は毎日着る洋服も自分で選んでいた。こんなの着てほしいなあというものは提案したりもしたが、基本へんてこな組み合わせでもヨシとしていた。
習い事もこどもたち自ら「これがやりたい」と言って来たものでなけれさせないということは徹底していた。
長男はとにかく人との関わりを嫌がったせいか(あまりに強く拒否するので心配にもなったが)一度も「○○やりたい」ということもなく、結局習い事はなにひとつせず大きくなった。
とはいえ、わたしもいろいろやらせたいとかやらせたほうがいいのではないかと悩んだ時期もある。男の子だしスポーツもいいなとか水泳は全身運動だしよさそうとか音楽が好きだからヤマハはどうかとか・・
そのヤマハだが、体験ができるという案内のはがきをもらい、行ってみようよと長男が3歳くらいの頃誘ってでかけた。
彼は家にあった電子ピアノで暇さえあれば遊んでいたし、音楽をかけるとリズムにのって楽しそうにしていたので喜ぶのではないかとおもったのだ。
しかし長男は入口で大泣きしてなんとしても入らないとふんばってがんばった。先生が一生懸命なだめて誘ってくれたけどどうしてもどうしても泣き止まず、室内に誰かがいるという事が嫌だという。
そんなにいやなのかと諦めて帰路につく。
考えてみたら、わたしは自分が幼かった時いろいろな習い事をしていたのだが、どれも大嫌いで辞めたいといつも思っていた。ピアノ教室にはたくさんの犬がいたのでそれが楽しみで行っていたくらいで、ピアノは全く上達せず、そのほかのものも親にうそをついてよく行かなかったりして。時間もお金も無駄だったなあ。
長男は鉄道が大好きだった。
次男はパズル。
長女はそれこそあらゆることに興味をもち、いろんなことをやりたがった。
そしてどれもわたしの育ってきた中でわたしが一度も興味をもったこともないものばかりで、
理解できないような世界であり、
遺伝のようなものは一切感じなかった。
また、これをやれば「役に立つのではないか」と思うような見方は一切せず、とにかくすぐに飽きてしまうものではなく、彼らが心底好きと思っているのではないかというものをみつけだすことを心がけた。
自己申請のよいところは、いつかは必ずくる「もう嫌だ」の時に、親にやらされたということがないと、自分で超えるしかないと本人が思うところで、人のせいにできない。
わたしも面倒なことにならないし(笑)本人にとっても学ぶところが多いように感じる。
引き際も含めて自分で決めるという責任のような感情や体験はなかなか得られる場もないように思うのだ。
やり遂げたという達成感や納得感も含めて人生における貴重な場面になるのではないだろうか。
三人三様さまざまな「夢中になる」ことを経て
今それが職業になったとか学業にいかされているということは感じない。
彼らの進路や成長に「役立ったか」といえば
そうはおもわない。
しかし「夢中になった」ことがあったことで
「自分はこんな人間」という意識がめばえ、
「自分」の存在意義の認識の安定につながっているように感じる。
人に認めてもらうことの欲求より以前に「自分は自分だから大丈夫」というような頼もしさというのか、
幼少期のパターナリズムというものを充分に活用し、充分に満足したというような、ある意味「正しさ」があるようにみえるのだ。
この充足感はいくら親であっても直接こどもに与えられるようなものではないと思え、
しかしいつ形成されたのだろうと考えると、育ちの中での影響であるだろうから、関わってきたすべてのことになるのだろうが、
本人の捉え方も含めて考えると
人間の育ちは面白いなあと
やはりここでもつくづく感じてしまうのある。
だれかや
なにかのせいにすることより
自分が問題を解決していく能力があるのだと信じていける、そんな考え方が子どものうちに人格に備わることは幸せの一つのようにおもえる。
その人間の形成には
その人が「夢中になること」に
どれだけ「夢中になれたか」にかかっているように
思うのだ。
お子さんが夢中になることはなんですか。
karanobuさんの作品を冒頭に使わせていただきました。
ステキな作品をありがとうございます。