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東京23区に73か所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [14]砂町富士(富賀岡八幡宮)[15]深川八幡富士(富岡八幡宮)[16]亀戸富士(亀戸浅間神社) その1

東京と水。
徳川家康と富士。

改めて不思議に思い、考えました。

富士塚は、
なぜ東京にこんなにも造られ、残されているのだろうか

富士山のパワーは当時の人々にどれほどのものと考えられていたのでしょう。

江戸時代から現代の東京まで続く、
この都市の繁栄を徳川家康は見抜いていたのだとしたら、この地形と水との関係が、
繁栄するには最適地だったということなのでしょうか?

今ほど正確で緻密ではないデータをもとに
江戸という街を興していった家康。
その後続く徳川家の天下。

現代の東京の基礎を築いた家康の戦略を考えた時
彼の先見の明と強運とを思わずにはいられません。
そしてその構想の中に
富士山という存在があったのではないかという思いが
わたしの富士塚への好奇心を更にかきたてるのでした。



前回に続き、今回も水と関係の深い街にお邪魔しました。今回は江東区に3か所あるという富士塚関係の場所にお邪魔いたしました。
富士塚自体はこの中に一か所しか残されていませんでしたが、今回はこの街の江戸と水との関係を中心にめぐっていきたいと思っております。



その1では
まず、その一つだけ江東区に残されている富士塚に向かいたいと思います。
東京メトロの東西線「南砂町駅」で下車。
砂町富士をめざします。

ところで。
今回の2か所はちょっと似ている名前なのです。

富賀岡八幡宮と富岡八幡宮。

深川八幡の旧地が砂町の八幡であると江戸時代に書かれたりしていたので、こちらが「元八幡」となったとの説もある

ご近所富士塚の「謎」有坂蓉子著より

さて、その「書かれていた」というのが下記の図から確認できます。

赤く囲ったところが富賀岡八幡宮の場所です
(国会図書館蔵)

江東区東部には北砂や南砂、東砂、新砂と、地名に「砂」の付く一帯がある。現在は大規模マンションが立ち並び、大型商業施設も増えている人気住宅街だが、江戸時代には「砂村新田」という開拓地だった。

元々は中川(現・荒川放水路)河口のデルタ地帯のため、葦(アシ、ヨシ)が茂る砂州のような場所で、満潮になると水没し、浮島が点在していたと推測できる。そんな土地を埋め立て、田畑を作ったのが名の由来に思えるが、実は開拓を指導した砂村新左衛門の姓にちなんだものだ。明暦の大火直後の万治年間(1658-61)に、小高い浮島だった「宝六島(ほうろくとう)」周辺を土手で囲んで干拓した。新左衛門自身は「宝六島新畠」と命名したというが、彼の没後に砂村新田と呼ばれるようになったという。元八幡宮は、現在も南砂7丁目に残る富賀岡八幡宮のこと。社伝によると創建は8世紀半ばで、1627(寛永4)年に菅原道真の末裔(まつえい)といわれる長盛法院が、ここに祀(まつ)っていた八幡神像を、深川八幡宮(富岡八幡宮)に勧請(かんじょう)したとされる。深川八幡の旧地ということで、江戸っ子は「元八幡」と呼ぶようになったようだ。

ニッポンドットコム サイトより

あ!信号機にも元八幡ってありますね!


ここから歩いてすぐのところに、
あ!
富士塚がみえました!

おもわず、おおー!と声がでました。

かなりりっぱで堂々としています!
周りにはいたるところにこんな立て札が・・・
「注意 危ない 落石あり 山え登らないこと(事故責任は負いません)当宮」

確かに険しい山ではあります。

でも、登拝禁止って訳じゃないんだよね…?

せっかく来たのだし、登りたいなあと思いながらしばらく周りをうろうろ。
立派な石碑が沢山あります。


ここで改めて富士山の全体図と、富士塚の基本構造を確認してみたいと思います。

富士塚といえば有坂蓉子さん!というくらい、わたしはこの方の資料にいつも大変お世話になっておりますが、
今回も有坂さんが書かれている本に載っていました情報がとてもわかりやすいため、お借りいたしまして、説明させていただきます。

さて富士塚には下記のようなものが配置されております。でもすべての富士塚にというわけではないため、これらがあると「あったあった!」と嬉しくなります。

このほかにも猿や天狗など定番のアイテムがあります

さて、どうしてこういうものが置かれたり造られたりしているのかというと、
本物の富士山を真似ているからなんですね!

このようなことを頭の片隅において富士塚を巡り眺めると一層楽しくなってまいります

この砂町富士はなかなかに石碑も大きくアイテムにも力を入れているように感じられます。
当時この富士講に勢いがあったということがわかります。

山頂近くにあった烏帽子
烏帽子は七号五芍の左側の位置に設置するとされています。
大沢くずれらしき溝
明治26年在銘 江東区有形民俗文化財

この富士塚を造った講は「山吉丸す御水講(やまきちまるすおみずこう)」という。「す」は砂村の「す」。「御水講」というのは、富士山頂の湧き水「金明水」を「加持水」として管理していたからである。富士登山をすると、吉田口から登ったところに立派な狛犬と鳥居があるが、この講による奉納である。地元では「おふじこう」と呼ばれ毎年7月1日朝10時に富士塚で山開きを行い、後日貸し切りバスで富士へも詣でる。

ご近所富士山の「謎」 有坂蓉子著より
「胎内」もりっぱです。
今は何かが入ったりしないようにしてあるようです。
他の富士塚でも「胎内」はこのようになっているところが
今までも多かったです
左端には砲弾もみられます。東京大空襲の爪痕です。

富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保4年(1833)までに富士講のひとつ山吉講によって造られた富士塚です。塚はもともと30mほど北にあり、当初は土山だったようですが、昭和8年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和37年(1962)現在地に移築されました。

江東区教育委員会 現地説明版より
これはもう現在の富士塚ですね。
でもこういう状態から今に至ったのかと考えたら
ちょっと感無量です。
当時これを残そうと思ってくださった方々に感謝です!


誰もいないことをそっとたしかめ、
登拝をはたしました。
足場は結構危なっかしくてドキドキでしたが山頂からの眺めに「やはり登ってよかった!」という満足感を味わいました。
山頂には「浅間嶽大日如来」の石碑が。これは富士山の方角にあるのだそうです。

さて、ここで江東区深川周辺の江戸切絵図と現在の観光マップを見てみたいと思います。江戸当時と現代のものを同じ向きでおいてみました。

どちらも一番上の川に永代橋があるのがおわかりになるでしょうか。
切絵図のほぼ真ん中に縦にまっすぐとおっている小名木川が現代の図にもみられます。
この川は今から400年ほど前に徳川家康の時代につくられました。
この川のことはまた後にご案内したいと思います。

切絵図左側にこの砂町富士のある富賀岡八幡宮もみえますがこの位置は現代の地図でみると富岡八幡宮の位置のようで、不思議なのです。このあたりのことも後ほどまた浮世絵などと一緒に見ていきたいと思っております。

江戸切絵図

ちなみに最初の方でご紹介しました砂村という場所は上図の切り絵図ですと左下の緑の場所になります。
砂村は後に農業が盛んな場所になり、砂村新田は江戸近郊の農産地として、スイカ、カボチャ、キュウリ、ナス、ネギなどが特産品でした。

さて今回はこの辺までとなります。

その2では富岡八幡宮、
その3では亀戸浅間神社をご紹介したいと思います。
引き続きよろしくお願いいたします


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