平和な時代に天守はいらない?江戸城の天守が4度目の再建をしなかった理由とは
かつての江戸城では天守は3回築造されています。
しかし3回目の天守は火事で焼け落ち、
4度目は再建されませんでした。
現在は天守台の石垣のみの姿があります。
先日江戸城に出かけ、
石にある刻印というものを探してまいりました。
その時見かけた
天守のない天守台のことが気になり、
調べてみたくなりました。
江戸城の前身は太田道灌(戦国初期の武将)によって築かれたお城でした。
当時は土のお城だったそうです。
秀吉の天下統一後関東へ国替えとなった家康は江戸城を居城としますが、その時はまだ城は土のままにしていたといいます。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍となった家康は江戸幕府を開府して以降、江戸城を本格的に改修していきます。
じつは当時の城の詳細は資料があまりなく謎のままでしたが、この「江戸始図」によって、当時の城が大天守と小天守がつながる、姫路城のような「連立天守」だったことが、明らかになりました。
初代天守は1607年(慶長12年)頃に建てられました。
下の写真は姫路城です。
こんなふうなすばらしく美しいお城が江戸の町にもあったのですね!!
江戸城はその後1623年(元和)、1638年(寛永)と2度天守が築かれています。
2代目の天守の再建はは将軍秀忠が行い、3代目の寛永度天守が築かれたのは3代将軍家光の時代でした。
この寛永度天守については資料が残っており、構造などもあきらかになっています。高さは45mほどあり、天守台まであわせると58mまでにも及び、現代の建物で20階建てのビルに相当する高さだそうです。
現存する最大の天守は姫路城ですが、その高さ31.5m。この高さの比較だけでも江戸城が大城郭だったことがわかり改めて驚かされます。
その後の1657年(明暦3年)本郷、小石川、麹町から出火した明暦の大火により、政庁である江戸城本丸御殿はもとより天守までも焼け落ちることとなります。
この火災により、市中の約2/3が焼失、犠牲者は10万人以上と推定されます。
すさまじい火事だったことが想像されます。
しかしその後天守の再建は、なされませんでした。
理由としては
◎将軍家綱を補佐した保科正之(家光の弟)が、天守より被災者救済を優先したため
◎江戸の町の復興と幕府にとって最も重要である本丸御殿の再建を最優先したため
といわれております。
天守は防衛のための施設というだけでなく、権威の象徴としても重要な存在でした。その権威づけが必要無いくらい江戸幕府の治世が安定していたということかもしれません。
つまり天守のない江戸城は
戦乱が続く時代から平和な時代への転換ともいえ、
また、ある意味、徳川の仁政(民衆に恵み深い政治)の象徴とも考えられます。
現在の大河ドラマで今まさに同じような内容が展開されていて、ハッとしました。
戦いの無い世をつくる。
わたしは、個人的な趣味で富士塚をめぐっています。
富士塚が一大ブームとなった江戸時代に思いを馳せ、富士山のパワーを感じ、当時同じく感じていたであろう徳川家康公の「運」に興味を持ち始めました。
学生の頃、歴史の授業でさんざん学んだけれど一度も興味を抱けなかった戦国武将のことがはじめて気になりだし、ちょうどいま大河ドラマで徳川家康公をとりあげているため、毎回楽しみにしながら観ています。
徳川家康って、こんなに何度も危ない目にあいながら、天下人になっていくんだなあと時々しみじみと思います。そしてやっぱりこの人の「徳」とか「運」をすごく考えてみたくなるのでした。
今回この天守のない天守台の理由を知った時、
天守を建てることにお金を使うより、民衆の救済を優先したということにじんわりと感動しました。
太平の世となり天守の重要度が低下していたというのもあるといいますが、そのこと自体が家康公の願いだったことを同時に考えさせられます。
江戸城に入った後家康公は江戸を整備し都市の発展と安定した民衆の暮らしを実現させていきます。
堀割、運河、道路、海面埋め立てといった壮大な規模の都市インフラ整備は重機などもない中進められたことを考えると改めて驚かされます。
そしてその後260年に及ぶ徳川時代を築き上げ、現代の大都市東京につなげていったのですから、その家康公の先見の明や力たるや、なにか神がかりなものすら感じられます。
戦いの無い世をつくる。
戦乱の時代を変えていく。
天守のない、天守台。
家康公亡きあとも、
家康公の願いは受け継がれ、
こんな形で実現したのでしょうか。
争いではなく手に入れることのできる
本当の強さとか
人間の願いとかを考えさせられます。
帰り道、清水門をでて振り返ると日本武道館の屋根が見えました。この建物は昭和39年に竣工しました。竣工当時は銅葺きで茶色だったそうですが、設計した建築家やの山田守氏は、いずれ銅が緑青を吹いて、周りの木々が育ったとき、千鳥ヶ淵の森に浮かぶ富士となることを見越して設計したといいます。
現在は、2019年から始まった改修工事によって、緑青色のステンレス製屋根に葺き替えられているそうです。
また一つおもしろいことを知り、
また一つ家康公のことを知り、
徳や運を考えさせられました。
少しでも自分につなげていけたらなと
思っています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?