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東京23区に73か所!すべての富士塚をめぐる挑戦 [13]鉄砲洲稲荷神社

「日本橋」という地名に惹かれます。
東京の中心地でありながら、歴史を感じる風格ある街のイメージとともに、江戸と呼ばれていた時代の人々の賑わいが感じられるからかもしれません。

今回は中央区に一つだけ残る富士塚、
鉄砲洲富士にお邪魔してまいりました。

中央区には富士塚はひとつだけという説のほかに、
3か所富士塚跡があるという説も入手いたしました。

その3ヶ所には富士塚らしきものはないとのことでしたが、神社があるのならお参りしてみたいと思い、住所を地図で確認してみましたところ、それぞれそれほど離れていないところにあるとわかったため、一気にまわってみようと計画しました。

🗻小網富士 日本橋小網町4-9
🗻茅場町富士 日本橋茅場町1-6-16
🗻八丁堀富士 八丁堀3
🗻鉄砲洲富士 湊1-6-7

ん?
地名に日本橋ってつくんだ。
と、ふと思いました。

そこで、我が家にあるマップルの町名索引をみてみたところ…
日本橋とつく番地の町名はこんなにあったのです。

日本橋1~3丁目
日本橋大伝馬町
日本橋蛎殻町
日本橋兜町
日本橋茅場町
日本橋小網町
日本橋小伝馬町
日本橋小舟町
日本橋富沢町
日本橋中州
日本橋人形町
日本橋馬喰町
日本橋箱崎町
日本橋浜町
日本橋久松町
日本橋堀留町
日本橋本石町
日本橋本町
日本橋室町
日本橋横山町

皆さんはご存知でしたでしょうか。
私は初めて知りました!

その他にも、千代田区には神田とつく町名が28か所もあり、また新宿区の市谷とつく町名も15か所あることを知りました。

へえ~!そうなんだあ!

でも、なんで??

日本橋○○町や神田○○町というのは日本橋冠称、神田冠称というのだそうですが、調べてみることにしました


現在東京都は23区ですが、この23区になったのは昭和22年なのだそうです。もとは15区だったのだとか!



さてその15区を記載してみますと・・
①麴町区②神田区③日本橋区④京橋区⑤芝区⑥麻布区⑦赤坂区⑧四ツ谷区⑨牛込区⑩小石川区⑪本郷区⑫下谷区⑬浅草区⑭本所区⑮深川区
となります。

15区は明治11年(1878年)の「郡区町村編制法」から始まり、明治22年に「市制」「町村制」が始まると、この15区の区域を「東京市」とすることになりました。

それからは郡が含まれた数の区になって35区になったりまた減ったりしながら23区になっていくわけですが、この15区で使っていた地名は23区の呼び名には全く引き継がれなかったのですね。

「日本橋区」は「京橋区」と合併して「中央区」として再編されますが、長く親しんでいた町名を残したいという住民の声が多く上がったことから旧「日本橋区」の町名に「日本橋」を冠することになったそうです。

日本橋という地名は残したいという気持ち、
なんだかわかるなあ!


さて今日は東京メトロの東西線で日本橋駅で降り、
江戸橋交差点のあたりに出れるD2出口から外にでました。

〇で囲まれた拡大されたところに地名があります。
日本橋川や日本橋、江戸橋ジャンクション、鎧橋など。
鎧橋はのちほど「鎧の渡し」ででてまいります。
赤い囲みは最後にご紹介いたします。

東京メトロ構内にて表示されている電飾掲示板の地図


江戸切絵図と比べてみました。
上の地図と同じ位置で方向を定めたかったので、さかさまになっていて、見づらくてすみません。

上の地図の拡大されたところとほぼ同じところが拡大してあります。
左の〇はふたつしかありませんが、江戸橋の下に日本橋が重なっております。
亀島橋はあとででてまいります。

江戸切絵図

今回調べて、びっくりしたのは
日本橋から新橋に至る市街地は江戸時代初めに遠浅の海を埋め立てた造形地ということ。だからこんなに区画が綺麗に整備されているのですねー。

埋め立てた土は神田駿河台の大地を崩したものなのだそうです。徳川家康に命じられて、大名たちは支配地の米の取れる量(石高)に応じて工事人をだしました。
でもこの時代の埋立工事、どんなふうにしたのでしょう?ものすごい大変なことではないでしょうか?

日本橋川は物資を運ぶ運河として整備された川で、1603年(慶長8年)に賭けられた日本橋は東海道など全国にのびる五街道の距離を測る起点とされました。

江戸切絵図の右上に鉄砲洲稲荷の図があります。
水辺すぐに位置していますね。
私がこの部分を拡大したため、すぐ近くにある高橋という橋が消えてしまっております。(すみません)

今現在の橋をここでお伝えすると…

江戸切り絵図にある橋の名前が
現在の地図にも結構残っているんだなと感じます


鉄砲洲神社はここから何度か移転し、富士塚は4回も形を変えたのだそうです。
鉄砲洲富士に関しましてはのちほど詳しく書かせていただきますね!



さてさて最初に訪れたのは日枝神社です。
あ!みてください!祭神のところに「浅間大神」とあります。木花佐久夜比売命とあります!これはまさしく富士山の祭神です。
ここに富士塚があったのかもしれない証拠です!(いや、あったという!)

さて、山王日枝神社といえば、赤坂の溜池山王にある日枝神社が有名ですが、この日枝神社はどんな関係があるのだろう?と調べてみましたところ、東京にはいくつか日枝神社と名の付く神社があることがわかりました。

御神徳が同じ大山咋神(おおやまいくのかみ)ということなのかな…

ここに記載のあるように、この日枝神社では昭和3年に浅間神社が合祀されたようです。
相殿ということですので、どこの日枝神社にも浅間神社があるわけではないということになります。
でもここでは、どうして浅間神社が合祀したのかなあ。
ちょっと気になります。
なんだかまた調べたくなることが増えました!

山王日枝神社入り口にて

ここの狛犬さんは上を見上げていました。
訪れた男性が「おお、珍しいなあ!」と言ってましたが、そうなのかあ。
珍しいのかな?

境内を奥に進むと、明徳稲荷神社というものがあり、おきつねさまにお参りします。なにか富士塚っぽいアイテムはないかなあ・・・と探します。

ん!これなんかどうだろう?と、黒い石でつくった入れ物?をみつめます
あ!富士山の形みたい!
富士塚に関係ある石かなあとおもってみたり・・・
「白雪」という樽酒

「白雪」という樽酒は、小西酒造の清酒です。
小西酒造は兵庫県伊丹市に本社をおく清酒メーカーで、
キャッチフレーズは「山は富士、酒は白雪」。
企業スローガンは「誰も歩いていない道を行く。」かっこいいですね!
小西酒造の東京支社が、前はこの日枝神社のすぐ近くにあったようですが、今は同じ中央区でも新富の方にあります。

日枝神社に近い建物の壁面に富士山を発見!ある方の記述で「小西酒造の東京支社の壁面に富士山のタイルがある」と書いてあったため、あの建物がかつての小西酒造があったところかもしれません。

白雪という商品名の由来を、小西酒造さんのWebサイトでみつけました。「寛永12年(1635年頃)二代目宗宅が酒樽を馬の背に載せて運んでいた途中、ふと目にした富士山。雪をいただいた気高い姿に心を奪われた宗宅は、自身の清酒にそのイメージを重ね、「白雪」と名付けたのです。いまでは、白雪は現存する最古の清酒銘柄となっています。」(小西酒造H.Pより)

わあー!富士山だあ!
東京証券取引所

この近くには東京証券取引所があります。
わあー。はじめてみました。立派な建物ですね。


ここからすぐのところに鎧の渡跡がありました。

鎧の渡しは、日本橋川に通されてていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や他紙類にも多く記されています。伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(1046~53)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風、逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧位一領を海中に投じて龍神に祈りをささげたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
この渡しは、明治5年(1872)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は「江戸名所図会」などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。

現地看板「鎧の渡し跡」より


名作江戸百景 鎧の渡し 歌川広重(初代)

当時こんな風景がこの地でみられたのですねえ。





さて次は明星稲荷神社です
小網富士跡ということですが・・
まずこの鳥居をくぐり、奥へ行きますと、

明星神社は最初江戸城内にあったものだそうです。

私が訪れた時にお二人お若い女性がおまいりにいらっしゃいました。
キレイに整備されたお稲荷様でした。
でも富士塚らしき名残などはなかったので残念でした。



この近くにありました亀島橋です。
ここには松尾芭蕉の句碑があります。

「菊の花 咲くや石屋の 石の間(あひ)」芭蕉50歳 元禄6年
芭蕉はこの翌年亡くなっているので、最晩年の作品ですね

この場所には「写楽」と「伊能忠敬」のことも紹介されていました。
写楽は長らく謎の多い人物でしたが、いろいろな書物の記載から、その生涯がわかってきたとの記述がありました。
この亀島橋付近の八丁堀に居住していたようです。

また、伊能忠敬も1814年に深川の隠居を八丁堀亀島町にうつしたとのこと。
地図作成を続け、4年後にこの地で没したのだそうです。
伊能忠敬は52歳の時に江戸に出て西洋天文学の勉強を始め、56歳から72歳にわたり約4万㎞に及ぶ徒歩の日本発全国測量を行い、その成果を編纂した「日本沿海輿地全国・実測録」は我国の発展に大きく貢献し、海外でも高く評価された人物。興味深いです!

亀島橋からスカイツリーがみえました




さてお次は八丁堀3丁目にあります天祖神社でございます。
建物の間にひっそりと鳥居があり、最初ちょっときづきませんでした。

こじんまりとしながらもきれいに整備された
清潔感のある神社
江戸時代の様子。
にぎやかな街の中にあったのですね
以前は「伊雑(いそべ)大神宮」と称されていたようです
このすぐちかくにあった「たからばし」はこの表示の石のみで
下には川はなく、高速道路になっていました




いよいよ鉄砲洲富士のある鉄砲洲神社にやってまいりました!
木々が色づいて美しいですね
なかなかに立派な神社です

さて、この神社何度か移されてまいりました。

平安時代の承和8年産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まります。
入り江埋め立てに伴い、京橋に遷座し、

さらに室町時代末期に新京橋(現在銀座一丁目付近)へ遷座、
八丁堀稲荷神社と称しました。

その後桜川が亀島川に合流する地点の
稲荷橋南東詰(現在湊1丁目8付近)に遷座し、
もとあった八幡神社を摂社としました
(Wikipedia引用)


奥にひっそりとありました!富士塚!

1790年(寛政2年)にこの富士塚は築造されました

その後1870年に新地に移築され、1874年再築、1885年、1928年、1936年と3度境内で移築され、現在の高さは5.4mだそうです。
だいぶ小さくなったとのことですが、貫禄ある富士塚でした。
現在は7月1日のみ登拝が可能とのことでまわりをぐるりとまわらせていただきました。

「ご近所富士山の『謎』」有坂蓉子著より

図をみると、アイテムもいろいろあるのですね。
頂上の鉄砲洲富士浅間神社にもお参りがしたかったなああ!
でも下をまわらせていただいただけでもありがたい!

石碑が数多く見られ、立派な富士塚でした。

ご胎内がかなり大きくて迫力がありました。
険しい山道です
てっぺんが遠くに見えます。
頂上には鉄砲洲富士浅間神社があります


家紋があるのと同じく、
神社には神紋というものがあるそうです。

神紋のなかでも稲紋が最も多い紋様だそうで、
こちらも稲の紋様でした。
この紋様を「抱き稲」というそうです。
いろいろなところにありました。


浮世絵で描かれている頃は、
鉄砲洲稲荷はこの辺りにあったのですね。

現在の場所より、より川に近いところにあったようです

浮世絵の作品に残されている、鉄砲洲です

鉄砲洲いなり富士詣 歌川広重2代目

この絵には女性の背後に大きな富士塚が描かれていますね!
立派な富士塚!興味深いですー!

東都名所之内 鉄砲洲佃真景 歌川広重初代
名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」歌川広重初代

色合いや構図がすばらしく、デザイン性の高い作品にうっとりします。歌川広重さんのセンスの賜物でもありますが、北斎の作品も大胆な構図が多くかっこいい!浮世絵って全般に絵画というよりポスターのような表現が主流だったのかなあ…
興味をもった西洋画家が多かったのもうなずけます!

江戸百景シリーズから、当時の生活の中に水辺が欠かせなかった様子が見られ、またその賑わいが感じられます。



さて、前回の目黒富士の時も書かせていただいておりましたが、
生活の中で川や水辺を大いに利用していた頃の東京の魅力について研究されてきた陣内秀信さんのお話がとても気になり、引き続き読ませていただいております。浮世絵の作品からも水と人々の関係が魅力的に描かれているのをみると、現代は川との関わりがすっかり少なくなっていることを残念に感じます。

しかし、最近この陣内さんが研究、ご提案されてきた「水都東京」というテーマが、日本橋で実現されようと動き出しているのではないかと思われる事実を知りました。



現在日本橋一丁目にて行われている工事をたまたまみつけました。
こちらは、最初の地図で赤い四角で囲んでおりました場所です。

ずいぶん大規模な工事です。
これは何の工事なのだろう?と思い、現場近くにいってみましたら、
いろんなことがわかりました。


こんなにたくさんの建物を解体していくようです
あ!たいめいけんも入ってる!

この工事現場すぐとなりにある江戸橋をみにいってみました

江戸橋の上には長く巨大な高速道路が横たわっていました。
右から左に写していきました。
パノラマ写真のようにみていただけたらと思います。


日本橋川沿いでは日本橋川上空の首都高速道路を地下化する「首都高速道路日本橋区間地下化事業」が進められているというのです!驚きました!
完成予定は2040年とのこと!
生きているかなあ!みてみたいなあ!


同時に日本橋川エリアでは複数の再開発事業が計画されており、この「日本橋一丁目地区第一種市街地再開発事業」が進行中です。

ネットなどで調べていただきますと、この日本橋一丁目地区がどのようにかわるのかイメージ図とともに紹介されています。

水辺と都会の街が美しく組み合わされた街が実現するようです。


最近思っていたことの一つに、世界の中の日本の存在が今後どうなっていくのかなということがありました。
経済大国としてのイメージはありながら資源のない国の弱さのようなものを感じ、今後どんな位置になっていくのかと考えた時、けして強さだけが価値があるとも思えず、日本の良さ、日本らしさということが今後大事になっていくのではないかなと思えました。
それはなにかと考えたら、「おもてなし」ではないかと思えてきたのです。
日本の接客業の細やかさは素晴らしいと思います。そして食べ物がおいしくて美しくて種類が多くて安全で。そして江戸という文化になにかとても期待できるものがあるように思うのです。

私は生まれ変われるなら江戸時代に生きてみたいと思ったことがあるのですが、人々がたくましく楽しく生きているように感じるこの時代の人々をお手本に、現代の「おもてなし」とをあわせてつくっていけたら、日本らしい美しさと楽しさを世界に発信していけるのではないかなあとワクワクしてきます。それこそ着物や髪型まで江戸時代にもどせたら楽しいなあ!

そういう意味でもこの水辺と東京の関係を考え、もっと魅力的に組み合わせていく考え方はすばらしいと思っています。

新しい東京!楽しみです!



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