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我々の目は世界へと開かれてはいない

諸事情により短め。

※諸事情というのは大抵、子どもが熱を出したことを指す。

・人生を変えたいなら付き合う人間を変えるといい、としばしば耳にするけれど、忙しい時はこれが難しい。自分の生きる世界を別の場所によいしょっと移植するのはかなりの気力がいる。

・忙しくてドツボにハマっている時ほど、その環境から出られなくなる。蟻地獄かよ。元気があればなんでもできるが、元気がなければ何もできない。命題の裏も真になっている。

・美術館で画家の絵を見る時、"この絵が無名の画家の一人暮らしの屋根裏部屋で描かれて、画家以外がその絵を目にすることなく部屋ごと燃えてしまったとしたら、絵の素晴らしさは損なわれるのだろうか?"ということを考える。

・絵の素晴らしさをどう定義するかという話である。美術の価値は"その後の流れ"を作れたかどうかにかかっている(と私は感じている)。モネの『印象・日の出』が高く評価されるのはその後の印象派において重要な意味を持つからである。デュシャンの『泉』を今誰かが創っても、鼻で笑われるだけだろう。美術の価値は、歴史の流れの中で評価されている。

・つまり、誰に眺められることもなく屋根裏部屋で焼失した絵には価値がないことになる。しかし、美術史も何も知らない素人であるところの私が美術館で偶然目にした絵に"いいなあ、この絵は"という素朴な思いを抱くとき、おそらくその感情は屋根裏部屋でも再現可能だったろうと考える(幽霊のようになった私が、こっそり屋根裏部屋に忍び込み、その絵を眺めても同じ感情を抱くだろう、の意)。

・でも、ここには大きな問題がある。歴史の流れの中で評価され、美術館に置かれたからこそ私はその作品に出会うことができた。屋根裏部屋で偶然見かけても"いいなあ、この絵は"と思ったかもしれないが、そもそも他人の家には勝手に押し入ることはできない。昔の画家の絵なら尚更不可能だ。評価され、適切な場に飾られて初めて"いいなあ"の感情は発生するのだった。

・何が言いたいかというと、自分の中に価値あるものが存在しているという確信を抱いていたとしても、それが正しく評価され得る場に出ていかねば、その価値は人知れず消えていくのみ、ということです。これ、結構怖くありませんか?

・大抵こういうことを考えながら布団に入るので最近眠りが浅い。

Big Love…