天敵彼女 (81)
昨夜、なかなか寝付けなかった俺は、台所に向かった。
自分でも情けないと思うが、酔っぱらった秘書さんに絡まれたダメージが、微妙に残っていたのだろう。
このままでは、徹夜になる。牛乳がなければ白湯でも飲むつもりだった俺は。広間に音が響かないように廊下を歩き、冷蔵庫を開けた。
やはり牛乳はない。それならお湯でも沸かそうと思い、蛇口をひねった。やかんでもあればいいが、ここにあるのは片手鍋だけだ。
結局、片手鍋に薄く水を注ぎ、マグカップを用意した。俺は、ガスコンロ
の前でお湯が沸くのを待った。
「だーれだ?」
次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
半分寝ぼけていたとはいえ、ここまで無防備に接近を許すとは……自分でも信じられない緩みっぷりだと思った。
俺は、少し気持ちを落ち着けてから応えた。
「どうしたの?」
「駄目だよ。誰か答えないと」
「答えないと駄目?」
「駄―目!」
俺は、何だか負けた気分だったが、震える声で奏と言った。
「よろしい」
奏が手を放すと、既にお湯が沸いているのが見えた。
「白湯だけど飲む?」
「うん」
それから俺と奏は、サンダルを履き、土間の小上がりに腰かけた。
この場所なら、多少声を出しても広間まで届かないと思ったからだ。
俺は、薄暗い中で奏と話した。何だか変な感じだった。
「どうしたの? 奏も眠れないの?」
「ううん、私は寝てたよ。峻が部屋を出るのに気付いて、起きてきたの」
「ごめんね。起こしちゃったみたいだね」
「いいよ。私が峻と話をしたかっただけだから……」
その後、何を話したかよく覚えていない。本当に、たわいのない内容だったからだと思う。
でも、俺がそろそろ寝ようかと言った後、奏が急に真剣な様子で話し始めた。
「ねぇ、前にスーパーの駐車場で、お互いに異性をどう思うか話した事があったでしょ?」
「うん」
「その時、峻にとって異性は天敵で、私には侵略者だったよね?」
「そうだね」
「それは、今でも変わらない? 峻にとって、女の子は今でも天敵なの?」
俺は、言葉に詰まり黙り込んだ。
正直、どう答えていいか分からなかったからだ。思ったままを言えば、奏に嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
かといって、奏に嘘はつきたくない。
どうすればいいんだろうと俺が考え込んでいると、奏が先に口を開いた。
「私にとって、男の人はまだ侵略者のままだよ。でも、峻は違うと思ってる。私は、男の人が苦手だけど、峻とはずっと繋がっていたいと思ってる。私は、辛い事があったからからと言って、全部を嫌いになりたくない。峻はどう? あの時と何か変わった?」
薄暗いせいで奏の顔は見えなかったが、言葉の重みは伝わっていた。
いつもなら日和って答えを濁す俺だが、この時だけはストレートに思いのたけをぶつけた。
「……俺も、基本的な所は変わってないと思う。でも、多少の変化は感じてるよ。今はまだ奏のようにはなれないかもしれないけど……確かに、嫌な事がずっと続く訳じゃないし、俺もいつか過去を……でも、今はまだ難しいと思うし、いつまで待たせるかも分からない。俺は、奏のようにこうなった原因と向かい合えてない。あの日から時間が止まったままなんだ。でも、奏の為になりたいと思ってるのだけは本当だよ。何だか、いつもごめんね」
「謝らないで……答えてくれてありがとう」
一瞬、何が起こったのか分からなかったが、少し遅れて奏の体温を感じた。
「おやすみ」
「う、うん……マグカップ洗っとくよ」
「ありがとう。今日はありがとね」
「おやすみ」
その後、俺が眠れなくなったのは、言うまでもない。
夕食までに仮眠して、グダグダ状態から復帰できればいいが……俺は、台所で水を飲むと、洗濯をする為に脱衣所に向かった。