天敵彼女 (92)
その日も、遅い夕食だった。
学校から帰ってから、ずっと一人だった俺は、キッチンカウンター越しに父さんを見守っていた。
(出来たぞ。これ持っていけるか?)
(うん、大丈夫)
俺は、父さんからトレーを受け取ると、慎重な足取りでテーブルに向かった。父さんは、まだキッチンにいる。
一番よく出来た皿にラップをかけ、冷蔵庫に入れておく為だ。
当時の俺には、ろくに家に帰って来ない毒母の為に、どうしてそこまでする必要があるのか、よく分からなかった。
一度、どうせ捨てる事になるんだから、作ってもしょうがないと言うと、普段は温厚な父さんがあからさまにムッとしたのを覚えている。
それ以降、俺は父さんが毒母の為に食事を作る事に対して何も言わなくなった。
小さかった俺には、大人には子供には分からない何かがあるんだろうと、自分を納得させることしか出来なかった。
それからもう何年になるだろうか?
久しぶりにキッチンに立った父さんを、俺は当時と同じ場所から見守っている。
「どうした?」
「えっ、なな、何が?」
俺は、父さんが俺に話しかけてきた事に驚いた。あの頃、料理をしている父さんはいつもピリピリしていて、とても話が出来る雰囲気じゃなかったからだ。
「さっきから黙ってるから、何緊張してるんだろうって思ってな……」
父さんは、以前とは比べ物にならない程、穏やかな表情を浮かべていた。
俺は、自分でも何故そんなにキョドってしまうのか分からなかったが、とにかく返事をした。
「あっ、そそそ、そうだね。べ、別に理由はないんだけど、邪魔しちゃ悪いかなって……思ってさ」
「ああ、そうか……まぁ、手の込んだものを作る訳じゃないから、むしろ何か話してくれた方が気が紛れて助かる位だよ」
「そっかぁ……」
それから俺は、邪魔にならない程度に、父さんに話しかけた。
あの頃とは違い、父さんはすぐ返事をしてくれた。その度に、手元が疎かになるのが若干気になったが、それよりも父さんと話が出来るのが嬉しかった。
「これ、いつ買い物に行ったの?」
「昨日、寝付けなくてな……」
「夜、出かけたの? 一人で?」
「そうそう」
「全然気づかなかったよ」
「そうだろうなぁ……」
「どういう意味?」
「ふふふ……」
父さんは、意味深な視線を俺に向けた。丁度目玉焼きを作っているところだったと思う。
「で、どうなんだ?」
「何が?」
「奏ちゃんだよ。いつ告白して、正式に付き合うつもりなんだ?」
「そそそ、そんな事、俺は別に……もうストーカーもいないし、俺はそろそろ……」
「お役御免っていいたいんだろうが、それは無理だな。もし、そんなこと言ったらどうなるか分かるよな?」
「う、うん……」
俺は、背筋に寒いものを感じた。既に、後退は許されない。だが、進む勇気もない。
このままどこまでも膠着状態が続いて行けば、それはそれでいいのかもしれないが、そんな事が許されないのも分かっている。
父さんは、そんな俺をニヤニヤして見つめていた。何か言い返したかったが、言葉が出なかった。
そうこうする内に、俺はさすがに放置できない問題に気付いた。
「と、父さん、焦げてるよ」
「あ、ああ、これは参った……作り直すから待ってなさい」
「う、うん……」
父さんは、長いブランクのせいか、それからもよく料理の手順を間違えた。
普段、料理をしているせいか、ちょっとした失敗が目について仕方がなかったが、俺は極力余計な事を言わないようにした。
多少味に変化があるのは、仕方がない。それより、ずっと料理が出来なかった父さんが、自分からキッチンに立っている事を大切にしなければと思った。
俺は、ギリギリまで耐えた。
我慢しても食べられなくなる限界まで……。
「父さん、殻入ってる!」
「ああ、そうか?」
「それ油じゃないから!」
「すまんすまん」
「塩、入れ過ぎだよ!」
「あっ、洗えば大丈夫かな?」
「作り直した方がいいね。大丈夫だよ。まだ、時間はあるから」
「そうだな……」
そうこうしている内に、ようやく四人分の朝食がそれなりの形になり始めた。
既に、俺は寝不足だけが原因とは言えない疲労感に襲われていた。
「よし、これ持っていけるか?」
父さんが、俺にトレーを差し出した。
当時よりは、かなり大きめなトレーだった。
「うん、分かった」
俺は、四人分の皿が乗ったトレーを受け取ると、一瞬言葉に詰まった。
「どうした? 何か変だったか?」
「い、いや、別に……」
俺は、父さんから受け取ったトレーをテーブルまで運んだ。
さっき父さんの手は震えていた。だから、俺と話をして気を紛らせていたんだと思う。
「峻、色々すまなかったな……父さんのせいで、お前に重荷を背負わせてしまった……でも、心配するな。奏ちゃんとなら大丈夫だ。うちのような事にはならないよ……それに、失敗してもまたやり直せばいいじゃないか?」
俺は、ハッとして振り返った。
父さんが俺をじっと見ていた。頑張れと言っている気がした。
もう奏達が起きてくる頃だ。俺は、涙がこぼれないように目頭を押さえた。
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