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ヒューマノイド∽アイドロイド∅ガール (5)

 それは、まさに天と地の差だった。

 これからボコられるであろう僕と、お客様ポジションの少女。もうすぐ、地獄に連れ去られようとしている僕の目の前で、鈴里依舞がにこやかに微笑んでいる。

 これは、余りにも酷い待遇差別だ。

 間違いなく、今までの人生で味わったことのないレベルの理不尽だと思う。

 本来、おっさんだけじゃなく、鈴里依舞にも屈折した感情を持つべき所なんだろうが、何故か僕はこの少女に悪感情を持つことが出来ないでいた。

 ついさっき出会ったばかりで、何のつながりもない中学生位の少女。僕が、今までも、これからも接点を持つことなどないタイプだ。

 しかも、僕は今この会社を心底辞めたがっていて、どうやって目の前のおっさんに切り出そうか考えている状態だ。

 今の僕に、この少女と接点を持つメリットはない。ヤ〇ザの支配から逃れる為には、後ろ髪をひかれる要素などない方がいいに決まっている。

 なのに、何故さっきから僕は少女の様子を伺っているのだろうか? こんな感情は、真っ先に振り払わなければならないのだと分かっているはずなのに……。

 まさか、この短時間に心を奪われたとでもいうのか? 仮に、生存本能的な何かが、絶対的恐怖であるおっさんの圧に晒されて芽生えたのだとしても、それだけでは説明がつかない。

 多分、この子には何かがあるのだろう。それは、僕には攻撃性以外を見せたことがないヤ〇ザの態度からも明らかだ。

 今の僕に言えることはたった一つだ。ほんの数分前に会ったばかりの少女が、既に僕の中に強烈な印象を残しているということだ。

 それが何なのかは分からない。僕は、芸能事務所のシステム担当(失笑)であり、芸能そのものは分からない。

 分からないのだが、これがいわゆるスター性というものなのだろうか? いずれにしても、この冷静じゃいられない状況では、まともに思考回路は働かない。

 まず、気持ちを落ち着けて問題を整理するんだ。

 一人考え込む僕を置き去りにして、時間は進んでいく。おっさんは、僕には決して使わない声色で、鈴里依舞に語りかけた。

「何のもてなしもできなくてすまんなぁ……」

「いえ、そんな……」

「ちょっとそこで待っててくれ。すぐ戻るからな」

 おっさんは、鈴里依舞に微笑みかけると、僕の腕をつかみ、耳元で低く呟いた。

「いくぞ」

「はい」

 一瞬、助けてくれと叫びそうになったが、ビビりが先立ち何も出来なかった。

 僕は、おっさんを追いかけた。相変わらずの速足だった。あっという間に、人気のない場所に着いた。

 馬鹿でかい部屋の奥にある扉。その上のプレートには給湯室と書いてあった。

 ここで何をするつもりなんだと身構えていると、おっさんがドアの前で顎先を突き出した。

 何かもう、色々限界だった。僕は、おっさんに入室して頂く為、クソ丁寧にドアを開け閉めすると、背後から強大な圧を感じ振り返った。

 密室だった。もう逃げられないと思った。絶望する僕の前で、またしてもおっさんが顎を突き出した。

「フンッ! 使い方分かんだろうな?」

 この人は何を言っているんだろう? おっさんが何をしたいのか分からなかった僕は、正直に思っていることを口にした。

「ひっ、いえ、分かりませんっ!」

「アアッ!」

 瞬殺だった。僕は、うかつに発言した自分を責めた。いきなり飛んできた何か。慌てて掴むと右手に冷たい感触が伝わった。

「むんっ!」

 おっさんがまた顎を突き出した。僕は、おっさんと目を合わせないようにして、顎の指す方向を見つめた。

 ポットだった。

「早くしろっ! ぼーっとしてんじゃねぇ!」

 また飛んできた何か。

「ひ、ひぃっ」

 今度は左手がひんやりした。僕は、その時ようやく両手に掴んでいるのが湯呑みだという事に気づいた。

 要するに、おっさんは僕にお茶を入れろと言っているらしい。

 たったそれだけの事を伝えるのに、二度も人の顔面目掛けて陶器を投げつけるおっさんの粗暴さに、僕は戦慄した。

 これが僕専用のおもてなしなのか? 鈴里依舞を今すぐここに連れて来たい気分だった。

「おい、俺はぼーっとしてんじゃねぇって言ったよな? 早くしろとも言っただろう?」

 おっさんの顔が目の前に迫ってきた。思わず顔面をかばおうとした僕の両手から奪い取られる湯呑み。

「これは?」

 おっさんは、湯呑みをシンクの上に置いた。気が付けば、さっきまで投擲武器だったとは思えない程、きれいに等間隔に並べられていた。

 既に、この時点でおっさんの質問から数秒が経過――僕は急き立てられるように答えた。

「だだ、大丈夫…だと思いますぅっ!」

 脇腹に何かが食い込んだ。それ程威力はなかったが、それでも情けない程ビビってしまう自分がいた。

「すすす、すみませんっ! 間違えましたっ!」

 僕は、脇腹から回収した皿状のものを見つめ、しばらく考え込んだ。

「これは、こうです!」

 かろうじて、それが茶托だという事に気付いた僕は、湯呑みを茶托の上に置き、等間隔に並べた。

「次は?」

 おっさんのさらなる質問。さすがに、次は急須が必要なこと位は分かったが、もう色んな意味で限界だった。

 僕は、僕の同意を得ることなく始まったお茶出しテストをボイコットすることにした。

「分かりませんっ!」

 もう怒鳴られても仕方がないと思うより早く、おっさんがキレた。

「分かれっ!」

「無理ですっ!」

「いいからやれっ!」

「もういやだーーーーっ!」

 完全にパニック状態になった僕に、おっさんの説得(物理)が決まった。

「やれってつったら、やれえええええ!」

「はいいいいいいっ!」

 僕は命令(オーダー)に従った。

 率先して急須を給湯室の棚から取り出し、電気ポットの給湯ボタンを押した。その間に、横目で茶筒の位置を確認し、震える手で急須の横に置いた。

 もう滅茶苦茶だった。僕は、エンドレスで浴びせられる罵声「関係」に心をやられながらも、勘を頼りに「お茶」を用意した。

「出来たか?」

「ははは、はい」

 僕は何故こんなに手が震えるんだろうと思いながら、湯呑みをおっさんに差し出した。

 このまま消えてしまいたい気分だった。

「どどど、どうぞ……」

 震える唇を懸命に動かした僕は、おっさんの審判を待った。乱暴に奪い取られる湯呑み。静まり返る給湯室。おっさんが湯呑みに口を付けた。

「んだ、これぇ?」

 何かもう、色々一杯一杯だった。予想通り、おっさんがお茶を流し台に吐き出した。

 リアルガチにいたたまれない気分だった。僕は、どうしてこんな目にあわされなきゃいけないんだと思いながらも、既に条件反射と化した謝罪をした。

「すみませんっ!」

 当然、おっさんの怒りがそれで収まるはずはない。おっさんはどこまでも執拗に僕の失態を責め続けた。

 その一つ一つが、余りに的確で容赦がなく、僕のメンタルは完全に破壊され尽くした。

 消えたい――それでも、僕は謝罪した。おっさんにとって、それがどんなに無意味な事であったとしても(号泣)。

「すみませんでしたぁっ!」

「何がすみませんダァ? オイッ!」

「すみませんっ!」

「聞こえなかったのか? 何がすみませんなのか言ってみろっ!」

「すみませんっ!」

 この時、僕はおっさんの質問に答えていなかった。相手とは関係なく自分の言いたいことをただただ吐き出し続けていた。

 この気の短いおっさんが、そんな舐めた状況を放っておくわけがない。当然のように、物理的にパニクる僕を落ち着かせ、ドスの効いた声ですごんだ。

「謝る前に、やれ! すみませんとか、ごめんなさいとか、いらねぇんだよ。これからは、結果! 結果だけよこせ! いいな?」

「はい、ごめんなさいっ!」

 おっさんの気は短い。そして、おっさん基準だと、同じチャンスは二度ないらしい。

「お前、今なんつった?」

 おっさんの全身から怒りが溢れている。謝ってはいけないシチュエーションで謝った僕は、どうやら死刑らしい。

 こんな地雷原をこれ以上裸足で歩き続ける事なんてできるはずがない。全力で謝りそうになるのを押さえつつ、僕はまたお茶を淹れた。

「駄目だ、もう一度っ!」

「はいっ!」

「んだこれ? 舐めてんのか?」

「すっ、次お願いします!」

 それから数分、僕は考えられる限りのお茶入れを使い切ってしまった。もう勘弁して欲しかった。そんなに茶が飲みたければ、秘書でも雇えよと思った。

 僕は、ポットのお湯を捨てた。当然おっさんがキレた。

「おいっ、何してんだコラァッ!」

 僕は、おっさんに背を向けた。もう何を言われてもシカトするつもりだった。しばらくの間、睨み合わない睨み合いが続いた。

「平間ァ……お前、まさかすねてんのか?」

 しばらくすると、おっさんが声色を変えてきた。さすがに、膠着状態はまずいと思ったのだろう。客を待たせているのだから当然だ。

 僕は、強気に出る事にした。

「さぁ? どうでしょうね。すねてるように見えますか?」

 渾身のはぐらかしだった。質問に質問で返すアレだ。これでキレられなければ「いける」と考えた僕は、おっさんの出方を待った。

「お前、可愛い所あるじゃねぇか?」

 キレてない。僕は、賭けに勝った。

 この際、退職を切り出そうと思った。もう全ナマだっていい。きっと明日から僕は胸を張って生きていける――そんな気がした。

 僕は、おっさんの方を向き直した。何故か、おっさんが笑っていた。ガチでチャンスだと思った。

「すみませんが、もうやってられないんで……」

 言った。言ってやった。

 僕は、横目でおっさんを見た。まだ半分笑顔が残っていた。とりあえず、最後まで言い切ろうと思った。

「辞め……」「アアッ!」

 僕は、言葉に詰まった。おっさんが鬼の形相だった。一瞬で萎えた僕は、思わずポットに水を入れようとした。

「平間ァッ! 舐めた事言ってんじゃねぇぞぉ!」

「みぞおっ……」

 僕は悶絶した。息が出来なかった。しばらくして、狭い給湯室に煙が充満した。ここでは吸ってはいけないはずの煙草の臭いがした。

「たくっ、麻生地の野郎、こんなしょぼいガキ掴ませやがって……」

 おっさんの激白――僕は、自分をこんな目に合わせた悪魔の正体を知った。

「あいつ、付き人やれっていったら、辞めるとか言い出しやがって……代りにお前を推薦しやがったんだが、こんな使えねぇ奴どうしろってんだ。やっぱ自分で選ばんと駄目だ。全く、俺が現場から目を離した隙に、こんなたるんだ空気になるとはな……」

 おっさんの口から煙。もろに浴びた僕は、激しく咳き込みながら思った。

 だったら、今すぐ斉藤か麻生地を拉致するべきだと。少なくとも、僕なんかより鍛えがいがあるはずだ。

 何せ、奴らは……。

 僕は、ハッとした。そういえば、聞いたことがある。

 かつて、ここには鬼がいた。要求レベルがアルティメット高く、極めて短気。妥協の二文字を胎内に置き忘れたと言われるほどの剛腕ぶりと、理不尽 極まりない命令を確信を持って下せる鋼のメンタルが特徴。

 当時のバイト全員を極限までしごき抜き、この世の地獄とまで称される修羅場を作り出した張本人。

――少なくとも、僕は二度とあの人の顔を思い出したくない。時々、夢でうなされるけど……。実は、薬飲んでる。でも、ちっとも眠れないんだ。

 ここに来た当初、遠い目でそんな話をしてくれた先輩がいた。

 仮にメンタル先輩と呼ぶことにする。すぐに辞めてしまったが、普通に良い人だった。良い人だったから、おっさんが現場にいる間に辞めると言い出せず、メンタルをもっていかれたのだろう。

 幸い、僕は鬼を知らない。おっさ……鬼が現場を離れた後でここに来たからだ。

 でも、あの二人は……。

 全く、自分の情弱さが嫌になる。人生この手のパターンで損をしたのは、もう何度目になるだろう?

「平間ァッ、お前やる気あるのか?」

「はいいいいっ!」

 鬼のやる気あるのかは死亡フラグ――メンタル先輩が確かそんな事を言っていた。

 僕は、生きる為に猛アピールした。次のメンタルになるのだけは嫌だった。この際、逃げるとか、辞めるとかは後回しにするしかないと思った。

「自分、すぐお茶入れますんで判定お願いしますっ!」

 僕は、やる気をアピールすることにした。普段の倍のスピードで動いた。給湯器に水を入れ、コードを繋ぎ、給湯ボタンを押した。どんな叱責にもハキハキ答えることにした。

「出来ました! お願いしますっ!」

「おっ、おぅ……」

 おっさんの顔が通常の恐さに戻った。チャンスだと思った。僕は、全身全霊でお茶入れをした。

 結果は、不合格だった。もう一度頑張ろうとしたが、お茶っ葉が切れていた。おっさんが僕を睨み、溜息をついた。

「仕方ねぇなぁ……これもってけ」

 それは缶ジュースだった。救われたと思った。速攻で鈴里依舞の所に持っていこうとした僕に、おっさんの容赦ない鉄槌が下った。

「グハッ……」

 遠のく意識――おっさんのキレキレ過ぎる声が僕の脳裏に響いた。

「コップに移し替える位しろやぁっ! 常識ねぇのか? ゴラァッ!」

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