天敵彼女 (45)
喉がカラカラだった。
俺は、すっかり冷めたお茶を口に含んだ。
顔を上げると、すぐそこで奏が微笑んでいた。
「ありがとね。でも、大丈夫?」
心配そうな奏。
出来れば、安心させたかったが、俺は相変わらずヘタレたままだった。
「言っとくけど、これは奏次第だから。奏が本当に好きな人が出来るまでの暫定だから、いつでも奏から切ってくれていいし、俺は奏さえ幸せになってくれればそれでいいと思ってるから……」
我ながら情けないが、これが俺の偽らざる心境だ。
俺には、心の中に刻み込まれた深い傷がある。
俺だけを見て、いつだって俺に微笑みかけてくれていた存在が、ある日突然素っ気なくなり、いつしか俺を邪険に扱い始める。
笑顔が不機嫌に上書きされ、いつしか憎しみを滾らせていく過程を俺は今でも覚えている。
その明確なイメージがある限り、俺は二度と俺だけの笑顔を求めたいとは思えない。
俺は、奏を大切に思っている。奏も俺との時間を誰にも邪魔されたくない
と言ってくれた。その為に、何を犠牲にしても構わないとすら思ってくれているようだ。
それが嬉しくないと言えば嘘になる。
俺にとって、奏の存在は特別だ。でも、永遠かどうかは分からない。
人には逆らえない本能がある。命題Xは個人の想いを簡単に踏みにじる。 大きな仕組みに取り込まれた瞬間、人間は単なる駒に成り下がっていくものだ。
今日、奏に声をかけてきたスポーツ推薦崩れも、以前はあんな奴じゃなかった。もっと律儀で、まともな考え方をしていた。
それが今では四六時中異性を求めてさまようだけの存在になってしまった。
利己的で、近視眼的で、いつだって狭い興味の中だけで生きている。自分の欲望にだけは常に忠実で、他人の迷惑を顧みない。
俺は、命題Xに取り込まれた連中を、天敵サイドの人間と呼んでいる。
あいつらは、本当にシンプルな世界に生きている。行動がパターン化され、何かに操られているかのように、同じ刺激に同じ反応を繰り返す。
それは、まるで何かにラリっているようで、どこか刹那的だ。
基本的に、奴らの幸せな時間は長続きしない。刺激から引き離された瞬間、あからさまに不機嫌になり、疲れ切った表情を浮かべる。
好きな事をしているはずなのに、全く人生が充実している感じがしない稀有な人種だ。
あいつらのスイッチが入るのは異性の前だけだ。それ以外はまるで怒られた子供のようにふてくされている。
かつては、もっとまともだったスポーツ推薦崩れ(面倒なので以後スポ薦)もその点では全く同じだ。
正直言って、最近あいつの良い噂を聞かない。情弱の俺にも伝わってくるレベルで、やばい奴認定されてしまっている。
人は何かを手に入れれば何かを失う。かつてのスポ薦を知る人間にとって、今のあいつはまるで別人だ。
命題Xは人を変える。無残な程に人格を改変してしまう。
その力を前にした時、人はどこまで自分を保っていけるのだろうか?
俺と奏も、今岐路に立っている。天敵サイドに取り込まれ、命題Xに翻弄される人生になるかならないかの選択を迫られているのだ。
俺は、スポ薦を笑えない。あれは、未来の自分かもしれない。
命題Xの影響力はそれだけ強力だ。どんなに心を強く持っているつもりでも、簡単に飲み込まれてしまう。
天敵サイドは、修羅の集まりだ。理性を失った人間達が、ひたすら身を持ち崩しながら、最も頼りにならないかもしれない相手にすがるお寒い世界だ。
俺は、どこまでいっても天敵サイドの女を信用できそうにない。
そもそも、男と女が相手を一番だと思うのは、互いがより良い相手に巡り合わなかった偶然の産物に過ぎない。
星の数ほどいる異性の中で、いつパートナーよりも良い相手に出会うか分からないからだ。
そんなあやふやなものに命題Xがブーストされただけで、天敵レベルにやばい相手と結ばれてしまう……俺は、恋愛も結婚も致命的な構造的欠陥を抱えていると思う。
そろそろ人は、命題Xがいかに残酷で無責任なものなのか知る必要がある。
そんなものに翻弄されても、残るのは天敵の彼女と、天敵堕ちし無残に改変されてしまった自我の残骸だけだ。
俺は、これ以上喪失感に耐えられそうにない。
だから、俺は……やっと顔を上げると、奏が微笑んでいた。
「それでいいよ。でも、私きっと……」
「えっ?」
「何でもない……峻こそ嫌になったらいつでもやめていいから、今だけよろしくね」
「う、うん……いいよ」
「ありがとう。ホッとしたよ」
俺は、何故奏が上機嫌なのか理解できなかった。
間違いなく俺は奏の気持ちに応えていない。中途半端な妥協案を提示しただけだ。
それなのに、何故喜べるのかが分からない。むしろ、失望されてもいいはずだ。
なのに、何故奏ははしゃいでいるのだろう? 俺は、完全に訳が分からなくなっていた。
「明日から楽しみだね。やっぱりリアリティが必要だと思うんだよね。手でもつないで登校する?」
「い、いや……それはちょっと……」
「でも、それじゃ私達の関係性が広まらないよ。わざわざ、私達付き合ってますって宣言するつもり? それだと、後で撤回しづらくなるよ? それより、自然に噂になる方がいいんじゃないかな?」
「それはそうかもだけど……でも、やっぱり」
「じゃあ、雰囲気作りからいく?」
奏が俺の間合いに入って来た。距離の詰め方がやばいと思った。
「ほら、直接触れなくても、これ位の距離に顔を近づけると、親密度がマシマシでしょ?」
「う、うん……」
「大切なのは私たちには付け入る隙がないって思ってもらうことだから、雰囲気作り頑張ろうよ。その場合、私だけじゃ駄目だから、峻からも近づいてきてね」
奏が上目遣いで俺を見つめてきた。
や、やばい。このままでは俺の命題Xが起動してしまう……俺は、内心切羽詰まっていたが、極力落ち着いた口調で呟いた。
「わ、分かった。気を付けてみるよ」
「うん、よろしくね」
奏の表情がぱっと明るくなった。
まだ父さん達は帰ってこない。
それからも奏は俺にニヤミスを繰り返し、俺のライフが地味に削られていった。
どうしてこうなった? 俺はヘタレただけなのに、何がそんなに嬉しいのだろうか?
やっぱり女は分からない。何故か、全身の力が抜けていく気がした。
俺は、思わず話を逸らした。
「そろそろ父さん達帰ってくるかな?」
「うん、何だかもっと話してたいね」
「そ、そうだね」
幼馴染がグイグイ来る。誰か助けて……俺は、窓の外を見た。
もう外が暗くなり始めていた。
俺は、すっかり冷めたお茶を淹れ直すため、キッチンに向かうことにした。