天敵彼女 (76)
「開けていい?」
「もう少し」
「分かった……あとどれ位?」
「二分、開けるタイミングは、アラームが鳴るから分かるよ」
「でも、目安でしょ? もういいんじゃない?」
「まぁ、ここまで待ったんだし、どうせなら美味しく炊けた方がいいでしょ?」
「そうだよね……もう一度見せて。まだ十秒しかたってないよぉ」
「う、うん……そうだね」
奏が待ちきれない様子でさっきから何度も同じ質問をしてくる。
俺は、一々残り時間を教えるのが面倒になって、スマホのタイマーを奏の方に向けた。多分、あと一分位だ。
さっきから、奏はしゃもじを握りしめている。
既に、かまどの火は落とし、余熱でご飯を蒸らしている状態だ。奏の言うように、多分今すぐ蓋を開けてもご飯は食べられるのだが、俺なりに一応の 目安の時間がある。そのルーティーンは崩したくない。
そんな事を思っている内に、アラームが鳴り始めた。
「開けるよ。もういいね?」
「うん、いいよ」
「やったぁ!」
奏が震える手で羽釜の蓋を掴んだ。どれだけ楽しみなんだよと思う。
「あけ、あけ……開けるよ」
「うん、ご飯かき混ぜてね」
「了解」
奏が深呼吸をして、一気に蓋を開けた。炊き立てご飯の良い匂いが部屋中に広がっていく。
「うわぁ、おいしそう」
奏は、うっとりした様子でご飯の表面を見つめると、おもむろにしゃもじを入れ、十字に四分割した。ちなみに、右手にしゃもじ、左手には蓋を持ったままだった。
「蓋渡してくれる? 持ってると邪魔でしょう?」
「あっ、ありがとう」
俺は、奏から蓋を受け取ると、邪魔にならない所に置いた。それから、すぐ隣の台所に向かい、かまどの上におひつを置いた。
「かきまぜ終わったらここにうつしてね」
「うんっ!」
「あとこれ左手に付けて」
「あっ、ありがとう」
奏は、俺からミトンを受け取ると、左手に装着した。これは、しゃもじでご飯をかきまぜる際、うっかり熱い羽釜に触って火傷をしない為だ。
「峻、おこげだよ。おこげ! これ美味しいんでしょう?」
「美味しいよ。食べてみる?」
「いいの?」
「いいよ。後は俺がやっておくから……はい、これ」
俺は、お茶碗を差し出した。奏の目が輝き、あっという間におこげ多目のご飯がよそわれていた。
それから俺は、奏からしゃもじを受け取り、箸を渡した。
「美味しい。お米が立ってる。これおかずいらないよ」
「良かった。漬物もあるけどいい?」
「もらう!」
そんな感じで、俺と奏がワイワイやっていると、炊き立てご飯の香りに誘われるように、縁さんと秘書の向家さんが家に入って来た。
「まぁ、良い匂いね」
「お邪魔します」
「早かったですね」
「ええ、意外に道が空いていて……」
「あっ、お母さんと向家さんだ。これかまどで炊いたんだよ」
「そう、美味しそうね」
「峻と奏ちゃんが二人で炊いてくれたんですよ」
「それで早速味見してるの? うまく炊けた?」
「美味しい! 最高!」
「よかったわねぇ……」
この家が、こんなに賑やかになるのは本当に久しぶりだ。
俺は、作業の手を止めると、縁さん達に挨拶をしに行った。
「こんばんは。早かったですね」
「道が空いていたのよ。峻君、色々ありがとうね」
「いえいえ、こちらこそ奏が色々手伝ってくれて助かりました」
「峻君、向家とは初めて?」
「インターホン越しには何度か……こういう感じで会うのは初めてです」
「そう、じゃあ紹介しておくわね」
そう縁さんが言うと、向家さんが俺の方に歩み寄って来た。
「向家です。よろしくお願いします」
俺は、一瞬固まってしまいそうになったが、何とか言葉を絞り出した。
「……よ、よろしくお願いします。叶野峻です」
「あなたが奏の偽彼氏さん?」
「は、はい、そうです」
「ふーん、素材は良いわね……あっ、ごめんなさい。今日はよろしくね」
「は、はい……」
向家さんは、すぐに奏の元に向かい、何やら話しかけた。
俺は、しばらく呆然と二人の様子を眺めていたが、ふと作業の途中だった事を思い出し、かまどに向かって歩き出した。
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