天敵彼女 (36)
俺は、いつもより少し早めに一階に下りた。
昨夜遅くまで付き合わせてしまった為、少しでも奏を手伝おうと思ったからなのだが、既に廊下まで良い匂いが漂っていた。
俺は、リビングダイビングに入るとそのままキッチンに向かった。
ちなみに、うちはキッチンに向き合うようにダイニングテーブルがあり、リビングは窓際に配置されている。
一瞬、昨日のYAKISUGI祭りの事が頭をよぎった。
俺は、雑念を打ち消すように首を振り、奏に声をかけた。
「おはよう」
「あっ、おはよう。早いね」
「うん、これもう運んでいい?」
「お願い」
こうして、俺達はまず縁さんを送り出し、次に父さんを見送ってから、学校に向かった。
外に出るとやはり緊張した。ほんの数分の通学路がやたらと長く感じられた。俺は、昨日と同じで奏の少し後ろを歩いていた。
「あっ、奏ちゃん。おはよう」
いきなり背後から耳をやられた。相変わらずの高音だ。
一瞬、何が起こったのか分からなかったが、どうやら早坂が俺達の姿を見つけて声をかけてきたようだ。
「都陽、おはよう。電車混んでた?」
奏が手を振った。後ろから軽快な足音が近づいてきた。
「混んでましたよぉ。もう大変でした。家が近いの羨ましいです」
もう声はすぐ後ろからしていた。俺の耳がやばかったのは言うまでもない。
どうしてこの音波に耐えられるのか分からないが、奏は平気な様子で話している。仲がいいのは結構だが、俺越しに会話するのはやめて欲しい。
そう言えば奴はどうしたんだ? 今日は一緒じゃないのか? そんな事を考えていると、もっと至近距離で甲高い声がした。
「あっ、そうだ! 叶野君も、おはようございます」
気が付けば、早坂が真横にいて、俺を見上げていた。奏はさっきから後ろ向きに歩いている。
何となく位置関係がまずい気がした。俺は、早く二人を合流させるために、とりあえず早坂に返事をした。
「うん、おはよう。早坂、奏の横歩いてくれる?」
「分かりました。奏ちゃんいつも叶野君と一緒だね」
「いいでしょう?」
笑い合う奏と早坂。
俺は、既に警戒モードに入っていた。余り厳しくしたくはないが、さっきのはまずかった。
明日からこういう場合に奏が後ろ歩きをしないで済むようにしなければ……一瞬、考え事モードに入りそうになったが、周囲の警戒が疎かになりそうだったので強制キャンセルした。
何はともあれ、この道をまっすぐ行けば校門だ。
周りは基本うちの学校の生徒ばかりだが、ここもれっきとした公道だ。関係ない人間が紛れ込めない訳じゃない。
相変わらず仲の良さそうな奏と早坂。二人に向けられる視線の多さは、驚くほどだった。
俺は、思わず周囲を見回した。
すると、俺達のすぐ後ろを浮かない表情で歩く男に目が行った。
「おい、どうしたんだ?」
「あっ? ああ、叶野か……おはよう」
「お、おう」
おかしい。こんなの佐伯じゃない……ちょっとした違和感はあったが、ここで油断する訳にはいかない。
俺は、すぐに周囲の警戒を再開。楽し気に話をする奏と早坂の後ろを歩いた。
それからしばらくして、俺達は校門を通過。万全とは言えないが、生徒指
導の教師が不審者を止めてくれる想定で、俺は警戒レベルを下げた。
「今日は、早坂と一緒に来たの?」
俺は、不本意ながら佐伯に話しかけた。一応、情報収集のためだ。佐伯は、何やらスマホをいじっていた。
「えっ? う、うん」
「どうしたんだよ? 朝からメールか?」
「えっ? ああ、ちょっと昨日色々あってね」
「昨日知り合った人なの?」
「別にそういう訳じゃないんだけど……あっ、ごめん電話だ」
佐伯は、そう言うとスマホを耳に当て去って行った。
何をそんなに焦っているのだろうと思っていると、早坂と目が合った。
「佐伯の野郎、どこに電話してるんだろうね?」
「え、ええ……」
早坂が表情を曇らせた。何か思いつめているようだった。
一瞬、佐伯が何かやらかしたのかと思ったが、どうやら犯人は別にいるようだ。
状況を察した奏が言葉を挟んできた。
「ひょっとしておじさま?」
「う、うん」
それから佐伯が戻ってくるまで、俺は早坂から簡単に事のあらましについての説明を受けた。
昨日、佐伯と一緒に下校した早坂は、自宅の最寄り駅で迎えに来ていた母親と合流した。
佐伯とはそこで別れ、母親の車で帰宅。夕食を食べていると、いつもより早く父親が帰って来て、何故か母親と一緒に出掛けて行った。
二人がどこに行ったのかは分からないが、今朝わざわざ佐伯が自分を家まで迎えに来た時、父親が妙に上機嫌で声をかけているのを見た時、何となく察しがついたそうだ。
恐らく、両親が昨夜出かけた先は佐伯の家で、娘愛をこじらせた父親が、送り迎えだけでなく自分の様子を逐一報告するよう佐伯に頼んだのではないかとの事だった。
現時点ではあくまで推測だが、恐らく間違いないだろうとの事。
早坂が言うには、佐伯は電車の中でもずっとメールをしていて、返信がくる度に助けを求めるような目で自分を見つめてきたそうだ。
確かに、あいつが自発的に動くとは思えない。誰かに頼まれたんだろう。
だが、それでもあのしたたかな野郎が、こずるい悪だくみだけで生きてるような男が、そんなに簡単に面倒事に巻き込まれたりするもんだろうか?
俺は、思わず早坂に訊ねた。
「お願いベースで、あの歩くサイコパス野郎が、こんな面倒な事をするとは思えないんだけど……」
「それは……そうかもしれませんが、うちの父は私の事になると人が変わるというか……とにかくすごい勢いなんです。多分、断れなかったのではないかと。それに、佐伯君の家はお母さんの命令が絶対みたいなので、うちの親に頼まれた佐伯君のお母さんからも相当きつく言われたのかもしれません」
「ふーん」
俺は、心の中で黒い笑みを浮かべた。
いつも他人を陥れる事ばかり考えているから、自分も酷い目にあうんだ。
プププ、ざまぁ……思わず本音がだだ漏れになりそうになったが、俺は何とか踏み止まった。
「多分、今だけだよ。今は転校したばかりでお父さんも心配なんだよ。その内落ち着くから、今はそっとしておこう。あいつは大丈夫! 面倒な事から逃げるスキルだけは、人一倍持ち合わせてる奴だから」
「そうだといいんですが……」
「大丈夫大丈夫! 俺が保証するから! もう行こうか? ホームルームに間に合わなくなるし」
俺はそう言うと、教室に向かい歩き出した。
「えっ、ちょっと」
戸惑いながらもついてくる早坂。奏はいつの間にか俺の横にいた。
「いいの? かわいそうじゃない?」
「大丈夫だよ。あいつは強いから」
俺は、明るく言い放った。
後ろから、いつものウザい声が追いかけてきた気がするが、俺は聞こえないふりをした。
「待って待って! どこいくんだよ? ねぇ、叶野君って本当に酷いでしょ? 冷たいのよ。この冷凍庫! ぷんぷん!」
意味が分からない、どうやらいつもの佐伯に戻ったようだ。
俺は、小さくため息をつくと、歩くスピードを少しだけ緩めた。