天敵彼女 (90)
真っ暗だった視界に光が差し込んだ。
それが朝日なのか昼光なのか分からないが、どちらにしてももう夜ではない。今日からゴールデンウィーク後半だ。
俺は、薄目を開けた。
「……ん?」
思わず目を見開くと、視界の端に誰かの頭がある事に気付いた。
「えっ? えっ?」
俺は、若干パニクりながらも、状況確認を始めた。
まず、俺が寝ていたのはリビングのソファだ。どうやら座ったまま眠ってしまったらしい。
次に、誰かがタオルケットをかけてくれたのか、身体がポカポカしている。
五月とはいえ、夜はまだ冷える。うっかり風邪をひく所だった事に気付き、縁さんか父さんだと思うが、後でお礼を言わなければと思った。
で、この暖かさだ。どう考えても、タオルケットだけではこんな事にはならない。俺は、恐る恐る視線を下げた。
やはり、誰かがいる。俺の肩に頭を乗せ、俺の手を握りしめているのは、間違いなく奏だ。
どうしてこんな事に?
俺は、おぼろげな記憶を辿った。
昨夜、過去最大級の奏さんに、きつくお灸を据えられた俺は、自分の部屋に帰る事もままならず、そのままリビングのソファで眠る事になった。
というのも、俺が元実習生と刺し違える覚悟だった事を知った奏が、俺を放してくれなかったからだ。
(そんな事して私が喜ぶと思ってるの?)
(どうして自分を大切にしないの?)
(峻は、おかしいよ。またそんなことしようとしたら絶対に許さないから!)
奏はボロボロ涙を流していた。俺は、自分がしようとしていた事が、こんなにも奏を傷付けてしまった事に衝撃を受けた。
本当に自分が情けなく、申し訳ない気持ちになったが、それ以上にこんなにも自分の事を心配してくれる存在がいる事に、何とも言えない温もりを感じていた。
俺は、どうすれば奏に許してもらえるのか考えた。
奏には嘘は通用しない。本当に心を入れ替えなければ、この先ずっと俺は奏さんに怒られ続けるだろう。
それからは、ひたすら懺悔の時間だった。多分、数十回では済まない程、俺は二度と奏を一人残して消えない事を約束させられた。
その時点で、多分深夜だったと思う。
お互いに疲労もピークを越え、奏も徐々に眠気に襲われ始めた。俺は、今日はこれ位にしてお互い部屋に帰って寝ようと提案したが、奏は頑として首を縦に振らなかった。
結局、奏を一人にしない約束を守る為、ここで一緒に眠る事になったという訳だ。
そう言えば、タオルケットを持って来てくれたのは、なかなか奏が帰って来ない事を心配した縁さんだった。
もう遅いからうちに帰りなさいと言う縁さんに、奏が今日はここで峻と一緒に寝ると駄々をこねた。
根負けした縁さんが、風邪をひくからこれをかけなさいとタオルケットを持って来てくれたという訳だ。
それからは大変だった。片時も俺から離れたがらない奏と一緒に歯磨きをして、トイレに行く時も、お互いドアの外で待っていなければならなかった。
あれから半日は過ぎていないが、そろそろ奏が落ち着いてくれていればいいが……俺は、壁時計を見た。
九時を少し回った所だった。休日とはいえ、さすがに父さん達も降りてくる事だろう。
俺は、そろそろ起き上がろうと身体を起こそうとしたが、奏にがっちりホールドされていた為、身動き一つとる事が出来なかった。
「あらあら、あれからずっと一緒だったの?」
そうこうする内に、縁さんがリビングに入って来た。
俺は、気恥ずかしさで顔を上げる事が出来なかった。
「よく寝てるわね。すごく安心した表情をしてるわ」
「そうですか?」
「ええ……奏を許してあげてね。峻君が必死で自分を守ろうとしてくれたのはすごく嬉しかったはずよ。でもね、その為に峻君がいなくなってしまう事には耐えられなかったんだと思うの。だから、峻君の為に勇気を振り絞ってストーカーに立ち向かっていったんでしょうね」
「は、はい……」
俺は、気が付けば涙をこらえていた。
毒母が出て行ってから、俺はどこかで人生を諦めていた。どうせ自分なんてと、世間一般の幸せに背を向ける事で自我を保ってきたのだと思う。
そんな俺を、奏は命がけで繋ぎとめてくれた。毒母が捨てられてから、こんなに胸が熱くなったことはない。本当にありがたい事だと思う。
俺は、奏の頭を撫でた。
(う、うーん……)
次の瞬間、微かに奏の声がした。俺の位置からは良く分からないが、奏が目を開けたようだ。
いつの間にか、俺達の前にいた縁さんが奏に声をかけた。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
「えっ? しゅ、峻は?」
奏は、目を開けると、真っ先に俺の姿を探し始めた。
俺は、もう一度奏の頭を撫でると、なるべく落ち着いた声のトーンで言った。
「俺なら、ここにいるよ」
「あっ……良かった」
心底ホッとした顔をする奏。余程昨日の事が堪えているのだろう。俺は、改めて己の愚行を恥じた。
「奏、おはよう」
「うん、おはよう」
まだ少し寝ぼけている様子の奏は、朝の背伸びをした。その瞬間、俺は久しぶりに両手がフリーになった事に気付いた。
「あっ、俺顔洗いに行くね」
そう言って立ち上がろうとする俺の手を、奏ががっちりホールドした。今日も長い一日が始まりそうだ。
「……私も行く」
「で、でも……」
「私も行くから!」
「俺、トイレも行きたいし……」
「約束忘れたの?」
「……わ、分かった」
それからは大変だった。どこに行くにも奏が付いてきて、一時たりとも一人になる事が出来ない。
縁さんは、ひたすら笑顔で俺達を見守り、父さんは若干冷やかし気味な視線を向けてきた。
俺は、どうすれば奏が俺の元を離れてくれるようになるのか考えた。
そして、二日連続リビングで寝る事になる寸前に、俺は一つの答えに行き着いた。
父さんも縁さんもいなくなった事を確認すると、俺は奏に真剣な口調で語りかけた。
「奏、俺の話を聞いて欲しい」
「……うん」
「もう二度と奏を置いていなくなったりしない。ずっと奏の傍にいる。だから、もう心配しないで欲しい」
俺は、奏の目をまっすぐ見て返事を待った。
奏は、俺の顔をまじまじと見つめてから、悪戯な笑みを浮かべた。
「分かればよろしい。じゃあ、おやすみ」
奏は、上機嫌で自分の家に戻って行った。大切そうにタオルケットを抱えていたのが印象的だった。
昨日からの甘えん坊モードは、一体何だったんだ?
俺は、一人取り残されたリビングに呆然と立ち尽くした。多分、これからもこんな風に奏に丸め込まれていくんだろう。
あんなに一人になりたかったはずなのに、今は少し隣が寂しく感じる。
すっかり奏に躾けられてしまっている気がするが、不思議と窮屈さは感じなかった。
俺は、一人笑みを浮かべると、自分の部屋に向かい歩き出した。