『アルジャーノンに花束を』をホラーとして読んだ(過去形)という話
※初出はblueskyへの連続投稿である。
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『アルジャーノンに花束を』が文庫になったとかで、話題になっている。
悲劇として、喜劇として、SFとして。色々な読まれ方をされ時にし実写ドラマになり、今となっては既に古典の風格すらある物語。
中高の頃に初めて読んだのだが、その頃の俺にとって、「アルジャーノンに花束を」の顛末はホラーのように思えた。
『お前は三歳くらいまで碌に喋らなくて、三歳児検診に引っかかりかけた』と親は時折話した。正確にいうと、三歳過ぎまで一語文しか言わなかったらしい。『おそと』『ごはん』『だっこ』。
『この子はどうなるんだろうねえ、と思っていたら三歳半くらいから急に喋り出した』と続く。
親からすれば『それが良くまあ「普通に」勉強し読み書きするようになったもんだ』という話なのだが、俺にとっては違う意味合いを持っていた。
『自分は「紙一重」で「あっち側」に落ちなかっただけなんじゃないか?』
その感触に、「アルジャーノンに花束を」の筋書きは妙にハマった。アルジャーノンが、チャーリィが突然知能を発達させ、またそれを喪わせていく様が、俺には現実に起こり得ることとして、恐ろしく思えたのだ。
『三歳半の俺に偶々「紙一重」で備わった知能が、いつかこんな風に突然喪われてしまうんじゃないか』と。
恐ろしかった。駆り立てられるように図書館に籠もり、本を読み、勉強もした。そうして大学受験にも合格した。
別にアルジャーノンやチャーリィの運命は俺に待っていなかった。
代わりに、大学生や社会人としてのお俺には色々ヌケてるところが発覚した。予定がすっぽ抜けたり、突然嵐のように集中したかと思えばそれを全て投げ出したり、部屋がゴミ屋敷と化したり。
それを現す言葉が俺が中高の時分の世の中には存在しなかっただけなのだ。
--三歳児検診云々の時点で分かるひとには大体オチは読めたと思うのだが。
ええまあ、控え目に言って『発達障害グレーゾーン』というヤツで。色々事情あって正式な診断は受けてないのだけど、まあ傾向は間違いなくあるだろうという話はその方面の先生から聞いてはいる。
発達障害と括られる概念が広く知られるようになり、そういうひとが案外世の中に多いのだと知って、別に治ったり悪化したりするもんでも無いと知って、俺にとっての『アルジャーノンに花束を』は、ようやく、もはやホラーでは無くなった。
それでも、「チャーリィたちと自分に大した差は無い」という感覚だけは、どこかに引っかかっている。