なりひらの恋
「なりひらの恋」とは三田誠広の著作名です。彼の歴史小説は、『空海』『桓武天皇』に続いて三冊目です。題名からも分るように、軽い小説ですが、「在原業平」について古典と歴史をふまえて描かれています。
この三冊は、それぞれ点でしたが、桓武天皇を挟んで、線として繋がってきました。
業平は歌人として有名ですが、和歌には興味がない者としては、縁遠い存在でした。ところが、図書館の本棚には三田誠広の著作がほんの数作ぐらいしかないために、取りあえず手にとって冒頭を読んでみることにすると、面白そうだなと感じて、借りることにした。
その冒頭とは、次のようなものです。
《美男だと言われることには慣れている。
というか、うんざりだ。
もっとほかに、ほめ言葉ないのかと思うのだけれど。
まあ、武士ではないから、強い男と言われることはない。
儒学は多少、学んだ。馬に乗れる。
しかしその程度では、だれもほめてくれない。
実は鷹狩りができる。これは皇族だけに許された高貴な趣味だ。
しかし、専門職の渡来人だって鷹をあつかえるのだから自慢にならない。》
というような調子です。
伊勢物語に描かれている業平のエピソードと歴史的事実をもとに、本小説は書かれているとはいえ、伊勢物語と事実の間には、若干の差異があります。だが、事実のみに縛られると、物語が動かなくなるので、事実を無視した箇所もある、と三田氏は述べています。
本書は、歴史上の業平ではなく、伊勢物語に「むかし男ありけり」と語られた伝説のプレイボーイな面を強調したので、漢字の「業平」ではなく、ひらがなの「なりひら」としたというわけです。
この小説で、一番気に入った箇所を取り挙げます。
儒学の大御所と言われる、菅原道真がなりひらに和歌の極意の教えを乞う場面です。
《「なりひらさまは、和歌の達人と聞いております。和歌の極意とは何でしょう」
「極意なんてありませんよ」となりひらは答えた。
「ふつう生きて、恋をして、悲しんだり、悩んだりしていれば、歌は自然にあふれだしてきます。
「恋って、何ですか」
道真はきまじめな顔つきで、問いかけた。
なりひらは、いくぶん当惑しながら、相手の顔を見つめた。
「だって、道真くん。 あなただって、結婚していらっしゃるんでしょ」
道真には宣来子という妻がいる。子どももいるはずだった。
「妻はいますが、とくに歌などは出てきません」
「だって、あなたは漢詩の達人じゃないですか。 十歳の時に詩を詠んだのでしょう」
「漢詩は、単なる語呂合わせです。 言葉の遊びです」
なりひらは、ふうっと、息をついた。まじめな人間って、困ったものだ。
「言葉に、思いをこめたりしないのですか」
「言葉に思いをこめる…………。 どういうことですか」
「いや、 どういうことと言われても、それ以上、説明はできないのですが」
「言葉には、意味がある。 それだけでしょう」
「あなたねぇ…………。」
言葉には意味がある。確かにそうだが、言葉の意味をこえて、うめきのようなものがつきあげてきたり、意味もなくさけびたい気持ちになることがある。
それが歌だ。》
言葉を論理的に突き詰めて、その意味をさぐっていくタイプの道真とは逆に、言葉ではどうしても表すことができないと、もがき苦しむ「なりひら」とでは、このように会話が嚙み合わない。会話も言葉で表現しているから、当然のことではある。
なりひらの歌は、思いが先に立って、言葉になっていないと、よく批判されている。つまりだれもわかってくれないという思いを常に抱えている。
そこで、なりひらは、追いつめられたような思いで声ににじませてさらに、道真に問うた。
《「よく思い起こしてごらんなさい。胸が。ずきっと、痛むような、そんなことないですか」
「食べすぎたりしますとね」
「そういうことじゃなくて、悲しくて、涙が流れたり、そういうことですよ」
「母が亡くなった時は、涙が流れました」
なりひらは声を高めた。
「それですよ。愛する人を失えば、胸が痛んで、涙が流れます。桜の花が美しいのは、すぐに散ってしまうからです。つかのましかない美を惜しんで、胸を痛め、涙を流す。そこから歌ば生まれるのです」》
ここで、歌についての「なりひら」の語りは終わるのですが、道真はうすぼんやりとしか理解できない。
私自身も論理的思考するタイプですので、なりひらが述べていることは、まるで私に向けているように受け取っている。
なりひらは、晩年に、年下の友との雑談のおりに、ふと次のような歌を詠んだ。
《行く春を惜しんでみても
春の終わりは来てしまう
春の終わりの最後の日の
夕暮れになってしまったよ。》
「わたしの人生って、最初から最後までからっぽだったね」というため息を漏らしている心境を詠んでいるが、この歌は、78歳という老人の私には、しっくりとくる。
「在原業平」という名をなし、歴史を刻んでいる人物でも、こうした心境にあったのだというのを知るのは励みになる。
実際にこうした心境であったのかどうかは確かめようのないことで、あくまで小説家三田氏が創作した人物像であるでしょうが、歴史的な事実を調べていくと、これに辿りついてもおかしくはないものと思われます。