仏教学者佐々木閑氏は、仏教用語「無明」について次のように述べています。
ソクラテスは、政治家や知識人たちに、「勇気」「正義」「徳」について、尋ねると、分かったつもりでいるが、その本質については、分かっていない。
ところが、ソクラテスは分かっていないことを知っている、つまり「不知の自覚」(無知の知)と言っている。
ソクラテスが言う、不知(無知)は仏教用語の「無明」と通底しているようだ。
今回、「無明」をテーマとしたのは、X(旧Twitter)のタイムラインを眺めていると、れいわ新撰組代表山本太郎氏が、被災地に出かけたことについて、あまりにも騒々しいからです。
すでに投稿しましたが、ヘーゲルは『精神現象学』で人の意識が時間とともに、成長していく様子を次のように描いていたので、再掲します。
山本氏は、今回に限らず、10年前から、災害があれば、すぐに被災地に出かけていた人である。ヘーゲルの意識区分けから判断すると、行動する良心に該当するものと思われる。
一方、日本維新の会 音喜多駿氏は、彼の行動を真向から批判している。
彼の場合は、良く言えば、批評する良心となる。そうであれば良いがという意味も含めています。
いわゆるネトウヨ系の批判となると、被災者からカレーをもらって食べたという、もはや、どうでもよい批判であり、「無明」のレベルである。
金沢は、ほとんど被害がないのに、客が誰もこなくて、店の人が困っているということもタイムラインに流れており、情報が錯綜している。
菅野保氏も被災地に出かけ、渋滞しているところは何処もない、とポストしている。
特に、山本氏を支持しているわけではないが、彼の行動力には一目を置いている。何の衒いもなく偽善心というものを吹き飛ばしているからです。
音喜多氏も、相手に冷や水を浴びせるようなことばかりをするのではなくて、リスペクトすべきところは、ちゃんとリスペクトすべきでは、と思っています。
大被害を受けた輪島には2回ほど旅行で出かけたことがありますので、朝市が一刻も早く復興できることを望みます。
私も、阪神淡路大震災を体験しており、終戦直後のような焼野原となっているのを目の当たりにしました。輪島の震災後の映像を見ると、デジャブ感があって、その当時の様子が蘇ってきます。