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ワイさんからきたコメントで考えこみました

「えーと」という書き出しで、私の記事にコメントしてくる人(匿名ではなく本名?でしたが、ワイさんとします)がいました。

こんな書き出しは、冷笑系に違いないと思いつつ読んでみました。
矢張り、その通りでした。

ワイさんがコメントした記事は、柄谷行人の著書『日本近代文学の起源』の読書メモを過去に3回に分けて投稿したものをまとめたものであり、私の主張と呼べるものは何もないのです。(一ヶ所だけ私見を述べました。この私見が気に食わないのだが、それのみのコメントはしづらいので、記事全体が私の主張だと見なしたのかと考えました。)

ところが、ワイさんのコメントは、「えーと、......で?これらのご主張が〈生活〉とどう関係があるのですか?無いとすれば机上の妄想ですよね?
だとすれば、ものすごく虚しくなりませんか?」というものでした。

このコメントで考えこむことになりました。

ある意味では、ワイさんが述べている通りで、本質をついていると思いました。ただ、〈生活〉が〈生きる〉ためとなっていたら、よりグサッとくるものになったでしょう。

一部の人を除くと、noteに投稿することそのものが〈生活〉と関係するような人は、そうはいないだろうと思っています。

〈生活〉に関係するとなれば、様々な具体的なことは想定できますが、〈生きる〉ことに関係するとなると抽象度が上がり、考えるのは難しくなってきます。

一昨日、散歩の帰りにビールを買うためにコンビニに寄りました。入口近くに本棚があり、どんな本があるのだろうと眺めていると、永井均著『子どものための哲学対話」という文庫版の哲学書が混じっていて、薄目の本で価格も420円と安いので、思わず買物籠に放りこみました。

「ペネトレ」という名の賢い猫と「ぼく」という小学生の対話形式になっているが、猫のみがしゃべっていて、それをぼくがただ聞いているだけというものもあります。

ぼくがベネトレに「人間はなんのために生きているのか?」と問います。

ぼく:ねえ、ペネトレ、人間ってなんのために生きているんだろう? たとえばお父 さんを見ているとね、毎日毎日、仕事ばっかりしているけど、仕事ってお金をかせぐ ためにするんでしょ? お金をかせぐのは、お金がないと生きていけないからだよ ね? お金がないと、食べるものや着るものも買えないし、いろんな娯楽もできない ......。 でも、お父さんを見ていると、そういう、生きていくために必要だからやっ ているはずのことが、生きていくことそのものになっちゃっているような、なんだか へんな感じがするんだけど.....。

ペネトレ:生きていくための手段であったはずのことに、生きていく時間の大半をつ かっちゃっているってことだね? でも、人生はね、目的と手段をはっきり分けるこ とができないんだよ。手段であったはずのことが、いつのまにか目的そのものになっちゃうってことこそが、人生のおもしろみなのさ。

ぼく:手段であったことが目的ものになっちゃう...?でも、その目的っていったいなんなの? 人間って結局はなんのために生きているの?

ペネトレ:結局は、・・・・・・遊ぶためさ。仕事をしてお金をかせぐのも遊ぶためなんだけ ど、その仕事が生きていくことそのものになっちゃうのは、その仕事そのものが遊び になっちゃったってことなんだよ。それはちっともへんなことじゃなくて、とてもい いことなんだよ。

ぼく: 人生の目的は遊ぶことだって言うの? 世の中のためになるとか、なにから 仕事をするとか、そういうことじゃなくて? ただ遊ぶため?

『子どものための哲学対話』P16~P18

「仕事」に対比して「遊び」という言葉となると、何もしないでただブラブラするという意味に使われてしまう。そうではなくて、「自分のしたいことを楽しむ」、つまり何のためでもなく生きていることであり、ただ楽しいから遊ぶのであり、それによってなにが実現されるからでもない、と猫は付け加えている。

このベネトレの言葉を小学生のぼくは理解できない。当然でしょう。

ワイさんのコメントに対しては、この猫の言葉を利用することはできるだろう。ただ、こうした言葉で、私が溜飲が下がるわけでもない。

納期に追いまくられていて、それこそ〈生活〉のために働いていた現役時代から離れて、定年退職となり、働かないで、まさに「遊び」の連続の時間を過ごしているからといって、決して、満足のいく充実した生活を送っているわけではない。

それには、年金が少ないので、ケガやら病気やら発生したら、どうしたものかという不安感も含まれているが、それだけでもない。

哲学者の中島義道氏は、次のように進言している。

「もはや社会は(もしかしたら誰も)あなたを必要としていないのですから、このさいこの世に執着することはやめて、死のみを考えて残りの人生を送ったたらいかがでしょうか?」

その結果、不幸になるかも知れないし、しかも何もわからないまま死ぬかもしれない。でもそれが哲学することである、というのです。

哲学するとは何かということについては、それこそ哲学者によって様々です。

竹田青嗣氏は「哲学とは自分で考えることである。自分で考えるとは、これまでの既成の枠組み、自明性にあらがって、できるだけ根本から、つまり一から考えることである。」

苫野一徳氏は、「哲学とは、さまざまな物事の本質をとらえる営みである」

永井均氏は、猫の言葉を通じて、「すでにある学問を勉強していくのじゃなくて、問いそのものを立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問のことを、哲学だ」と述べている。

もうすぐ、78歳となる高齢者からすれば、中島氏の考え方がしっくりとくるが、執着心というものから逃れられるのなら、苦労はないです、という心境にあるから問題なのです。

般若心経の最後の方に次のような一節があります。

菩提薩埵 依般若波羅密多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
ぼだいさった えはんにゃはらみったこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんとうむそう くぎょうねはん

それゆえ、菩薩には「獲得するということ」がないのだから、般若波羅密多(智慧の完成)に依り、心になんの妨げも(罣礙)なく過ごしている。心になんの妨げもないから、恐怖することがなく(無有恐怖)、倒錯した思い(顛倒夢想)を超越(遠離)しており、涅槃に入った人なのである。

こうして、心に何の妨げ(執着)もなく、恐怖(不安)することもない涅槃(悟り)の世界に入ることができないので、ワイさんが言うように、虚しいのです。

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