三田誠広著『聖徳太子』読了
今回は三田誠広著『聖徳太子』を取り挙げます。本書は『日本書記』に書かれていることに基づいている、と述べています。
前回の『なりひらの恋』という軽い小説とは異なり、なにしろあの聖徳太子ですから、感情移入できるまでにかなり時間を要しました。
聖徳太子を含めて推古天皇、蘇我馬子、物部守屋、秦河勝などの歴史上の人物が活き活きと描かれていた。
聖徳太子の本名は厩戸皇子(厩戸王)であり、聖徳太子という名称は没後につけられた。本書では冒頭から上宮王と記しています。
聖徳太子はいなかったという学説もあるが、それを主張している人でも厩戸皇子はいたということを認めている。
聖徳太子は、仏教学者という捉えかたをしていたが、物部氏と蘇我氏との戦いで、蘇我氏の不利な状況を打開すべく勇敢な振る舞いをして、物部氏を敗北させるという神技のエピソードが描かれている。それもなんと12歳のときの偉業である。ちょっと信じがたい話しです。
蘇我氏は、こうして聖徳太子のお陰で、権力を得たにも関わらず、強欲な権力欲から太子と敵対し、抹殺しようと企てた人物だった。一方秦河勝氏は、最後まで太子に忠実だった。
太子は独学で仏教を学んできたが、どうしても理解のできない「空」の概念について高麗からきた高僧の慧慈に教えを場面があります。
【「涅槃は《空》である。いつぞやはそのような話を伺った。《空》とは言葉にならぬものであり、言葉で究めなければならないものであり、それが仏教の心髄であるということだが、その言葉にならぬ涅槃の境地を、言葉で究めなけらばならぬという思いから、三論が生まれ、理屈に理屈を重ねてより難解な領域に迫ろうという試みがなされた。話はそのあたりまでだった。 そのあとでわたしは考えたのだが、六波羅蜜というのも、その言葉にならぬ領域に到る方法なのであろう。
六つの実践項目が与えられ、その一つ一つを達成す ることによって、悟りの境地に段階的に近づいていく。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若……。
六波羅蜜はその六種であると説かれている。 物欲を捨て(布施)、戒律を守り(持戒)、屈辱に耐え (忍辱)、努力を重ね (精進)、瞑想に耽り (禅定)、言葉にならぬ智恵を得る(般若)。
このうち布施から禅定までは説明を聞けば理解できる。だが最後の般若というのは、言葉では説明できぬもの だけに、結局のところは理解しがたいものだ。
そこで導師に伺いたい。言葉にならぬ智恵を求める とはいかなることか。いかにして学べばよいのか。いかにして理解すればよいのか。 導師のご見解 をお示しいただきたい】
慧慈はとくに考えるようすもなくただちに答えた。
【言葉にならぬ智恵というものは、言葉で説明することはできませぬ。されども経典というものは 言葉によって記されております。 とくに般若経という経典は、その言葉にならぬ般若というものを、 言葉で示そうとした果敢な試みでございます。般若というものは、簡単な言葉では示すことができぬものでございます。
それゆえに般若経典は膨大なものになり、般若という語を冠した経典が数限 もなく生じることになりました。
天竺ではいまもなお新たな般若経典が書かれております。 そう した般若経典を集大成したものが大般若経でございますが、大般若経は無限に分厚くなっていく経 典だと申せましょう】
以後もしつこく慧慈に問いただすのだが、「あなたさまのようなご理解が弘まれば、この国は天竺に劣らぬ仏教国になるでしょう」と太子を誉め称えた。
慧慈としても、出家もしていない単なる在家の民間人にすぎない太子が、これほどまでに見識を有していることに驚かざるを得なかったようです。
空海と同じく、太子も仏教経典を難なく読みこなすことのできる大天才たちは、すでに涅槃の域に達しているということですね。