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愛の闘争
2022年9月11日に投稿した「ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』読書メモ(7)」にアクセスしてくれた方がいましたので、読み返してみると次のようなフレーズに目が止まりました。
「情念的な愛の分身、愛ー情念のカップルは、婚姻関係に陥り、あるいは「夫婦喧嘩」にさえ陥る。誰が言表行為の主体なのか。誰が言表の主体なのか。両性の闘い。おまえは私の考えを盗む。夫婦喧嘩は、いつも二人でのコギト、闘いのコギトであった。」
最も忠実な、甘美な、あるいは強烈な愛は、たがいに交換しあってやまない言語行為の主体と言表の主体とを配分する。
つまり、恋人同士であるうちは、お互いが言うこと、言われたことを理解しあえる関係にあるために、結婚にいたる。だが、いざ結婚すると、月日とともに、齟齬が生じて自己意識の闘争という夫婦喧嘩が始まる。
これを無理やり、社会の話しに広げてみる。
社会は少しづつ新しい事態に遭遇する。そのため、法は、それが何にどう適用されるのか事前に明らかでないまま、その全体系が適用されることになる。シニフィアン(法、規則)とシニフィエ(その適用対象)の間には、必ず不均衡が存在する。
公職選挙法という立派な法律が定められていても、法に書かれていないからと隙間をついてくる脱法行為がまかり通ったのが、今回の兵庫県知事選挙における立花氏の一連の動きでしょう。
政治資金規正法があるにも関わらず、裏金問題が発生するのも似たようなもので、人間の儲けたい、勝ちたいという欲望がなせる業でしょう。