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パラノイアとスキゾフレニー

1986年12月1日に刊行された浅田彰著『逃走論』よりパラノイアとスキゾフレニーを取り挙げます。

約40年前の著書ではありますが、時代遅れではなく、現代社会でも充分に現実味を感じる内容だと思います。

誰もが相手より少しでも速く、少しでも先へ進もうと、必死になっている社会。各々が今 まで蓄積してきた成果を後生大事に背負いながら、さらに少しでも多く積み増そう、それ によって相手を出しぬこうと、血眼になっている社会。 これはいささか病的な社会だと言わ なければならない。ドゥルーズ=ガタリにならって、このような社会で支配的な人間類型を パラノ型と呼び、 スキゾ型の対極として位置付けることにしよう。

パラノ型というのは偏執型の略で、過去のすべてを積分=統合化して背負いこみ、それ にしがみついているようなのを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》競走の熱心なラン ナーであり、一歩でも先へ進もう、少しでも多く蓄積しようと、眼を血走らせて頑張り続け る。

他方、スキゾ型というのは分裂型の略で、そのつど時点ゼロにおいて微分=差異化 しているようなのを言う。 スキゾ人間は《追いつき追いこせ》競走に追いこまれたとしても、 すぐにキョロキョロあたりを見回して、とんでもない方向に走り去ってしまうだろう。

『逃走論』P36

パラノ型というのは偏執型を意味するのだが、現役時代には、資本主義社会で生き抜いていくためには、こうならざるをえないことは、身に染みて理解していた。

他方、スキゾ型というのは分裂型を意味し、子どもたちは例外なくスキゾ・キッズだと浅田氏は述べているが、その通りでしょう。

新人時代は、スキゾチックさを含みつつも、徐々に出世するにつれて、パラノ度が増していく感じだった。

40年前も成長の終焉の予感がいたるところで囁かれていて、パラノ社会の病的な性格があらわにせずにはいられない、と言われていた。今や完全に成長が止まり、失われた30年の間、日本だけ給料がまったく上がってなかった状況では、パラノ社会のままで、果たして持続可能なのかという域に達しているのではなかろうか、と思われます。

そこで、スキゾ・カルチャーと到来となるのです。

最近の子どもたちは表現力に乏しい。きちんとした対話ができない。これまた耳にタコが できるほど聞かされる決まり文句だ。けれども、パラノ人間おとくいの「表現力」というの は、紋切型をパラノ的に反復する能力にすぎないし、「対話能力」というのも、予定された総合に向かう弁証法のパラノ・プロセスに安んじて身を委ねることのできる鈍感さ以外 の何物でもない。国会の演説や質疑応答でもきいてみれば、そんなことはすぐにわかる。

むしろ、スキゾ的な面に注目するとき、最近の子どもたちの表現力には驚くべきものがある。自分自身を含むありとあらゆるものをやすやすとパロディー化してしまう軽やかさ。パ ラノ的な問いをあざやかにはぐらかし、総合から逃れ続けるフットワークのよさ。重々しい 言葉を語っているつもりで、その実うすっぺらな紋切型を反復しているだけのパパたちに比 べると、うすっぺらな言葉を逆手にとっていわばオブジェとして使いこなし、次々に新たな 差異を作り出しては軽やかに散乱させる子どもたちの能力の方が、はるかに大きな可能性を もっている。彼らはまさしく差異化の達人なのだ。そうした能力はメディアさえ与えられれ ばいくらでも伸びていく可能性を秘めていると言ったら、いささかほめすぎになるだろうか。

同上P38~P39

現在は、ChatGPT、VRなどは、スキゾ・カルチャーが社会を席捲している。40年前にすでに、浅田氏は、「一定方向のコースを息せききって走り続けるパラノ型の新本主義的人間類型は、今や終焉を迎えつつある」と主張していた。ところが今だに、生き残っています。消費税を上げて、法人税を下げるなどと、企業を保護してきた結果でしょうね。



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