翻訳ソフトDeeplと水道橋博士が鬱病となり一時休業したことについて
本日は、いつもの読書メモは、中断して、note投稿を始める以前に、実施していた、英語、フランス語、ドイツ語などの外国語を、翻訳ソフトDeeplに入力するという作業を、久しぶりに、行ってみた。
フランス語の場合は、下図のように、アクセント記号が、多数あり、まずは、これを覚える必要があるのだが、約半年ぶりに、フランス語版(カナダ式)に切り替えたキーボードをさわると、かなりアクセント記号の入力方法を忘れていた。矢張り、継続することが必要でした。
下記は、Paul Ricœul 『La Memoire,l'Histoire,
l'Oubli』の一部を、Deeplにより機械翻訳した。
L'inquiétante étrangeté-Unheimlichkeit-jointe au sentiment de n'être pas à sa place juswue chez soi nous hante, et ce serait le règne du vide. Mais il y a une question de la place parce que l'espace non plus n'est pas plein, satureé. À vrai dire, il est toujours possible, souvent urgent, de se déplacer, au risque d'être ce passager, ce randonnerur, ce flâneur, ce vagaboond, cet errant que la culture contemporaine éclatée à la fois met en mouvement et paralyse.
選ばれたタイトルが、「物を元の場所に置きたい」というノスタルジックな願望を示唆しているとすれば、それはユリシーズのように、訪れた場所で、イサカに戻るときと同じようにくつろぐ、肉体の存在の全冒険なのである。船乗りの放浪は、定住者の居住に劣らずの権利を要求する。確かに、私の居場所は私の身体があるところです。しかし、身を置くこと、移動することは、場所を求める原初的な活動である。何もなかったら、怖いですね。私たち自身もショックを受けるでしょう。
下記は、久米博氏が訳した文章です。
選ばれた表題そのものが「ものごとをもとの場所に戻す」のを願うノスタルジーのようなものを暗示するのは、それが生身の人間の冒険そのものだからであり、彼はオデュッセウスのように、訪れたそれぞれの土地でも、帰り着いたイタケーでも、自分にふさわしい場所にいる。航海者の彷徨も、定住者の住居におとらず、その権利を要求する。なるほど私の場所は私の身体の在るところではある。だがどこかに身をおいたり、移動したりするのは、もっとも重要な活動であり、それが場所というものを、探し出すべき何かにする。場所をまったく見いだせないとしたら、恐ろしいことであろう。そうしたらわれわれの心は荒涼たるものになるだろう。
機械翻訳でも、ほぼ意味は分かるが、専門家による翻訳の方は、味わいがある。特に、最後の、「私たち自身もショックを受けるでしょう。」と「そうしたらわれわれの心は荒涼たるものになるだろう。」では、心に響くという面で、かなりの格差がありそうだ。
ところで、急に、話題を変えるが、7月の参議院選挙で当選した、水道橋博士が、鬱となり、議員を一時休業したというニュースが流れてきて、驚いた。彼は、過去にも鬱病を患っており、今回のように、芸人から政治家というように生活環境が激変すると、鬱病となるのも、むべなるかなと思う。
れいわ新選組を特に、応援していたわけではないが、今回の参議院選挙では、水槽橋博士が、急に立候補したことで、彼の個人名で投票した。大阪市長の松井氏から、理不尽なスラップ訴訟を受けていたことも、彼を応援する動機となった。
「反スラップ」をメインテーマとして、法律の制定を目指していたが、これが頓挫する可能性が高くなったように思える。というのは、一時休業とはいえ、彼が復帰するような気がしないからである。芸人としては、ハチャメチャな行動をとることもあるが、本来は、文筆家としての腕もさえており、芸術家肌で、内面を追求するタイプなので、政治家という真逆の立場では、継続するのは、困難だろうと考えている。