趣味と労働を考える
11月3日(日)TBSラジオで放送されていた番組「文化系トークラジオLife「”好きなことで、生きていく”から10年~趣味と労働を考える~」をYouTube動画版で観た。
今回は主に30代の若者によって、趣味と労働について、さまざまな考察を行っていた。
生命の維持のためにお金を稼ぐことが必要なので労働することが主となる。すると、自分が好きな趣味に割ける時間には限りがある。趣味の時間を増やすためには、労働と趣味が一致するのが理想ではあるが、そう単純なものでもない。
印象的だったのは、初めてMCをつとめた渡辺裕真さんが紹介していた余暇論の話しでした。それは以下のような内容です。
「趣味とは余暇のことであり、余暇には、現実界から離脱して自分を見つめなおして客観視できるように瞑想することが重要だ。瞑想をしないで、働くばかりでは堕落だ」
現役から退いて、年金生活となると、労働する必要がなくなり、余暇だけとなる。すると、自分が好きな趣味だけを享楽でき、至福の世界に浸ることができると思われるが、これもそう簡単なことではない。退屈というものが忍び込んできて、悩ませる。
以前にも書いたことですが、哲学者の國分功一郎氏は、『暇と退屈の倫理学』で暇と退屈を下記のように区分けしています。
暇があり、かつ退屈している。
定年退職者のばあい、パチンコ、競輪、競馬、飲んだくれる、カラオケ喫茶通いなどで、遊びで退屈しのぎしている状態。
私も、退職してすぐの頃は、頻繁にカラオケ喫茶(含む飲んだくれ)で退屈しのぎをしていた。暇なのに退屈していない。
1とは違って、定年退職者が、文学、哲学、音楽、絵画などの文化的なもので時間を過ごして、退屈さを感じていない状態。暇がない、かつ退屈している。
仕事はしているが、いわゆるブルシット・ジョブ的なものであり、上司のために説明資料作るとか、無駄な会議に出るとかの、クソどうでもよい仕事をさせられる状態。暇がない、かつ退屈していない。
プログラマー、繁盛している店の従業員、自動車などのメーカーの労働者であり、この階層こそ暇を与える必要がある。
この区分からすると、2の「暇なのに退屈していない状態」で満足すべきであるが、渡辺氏の説明によれば、これでは駄目となる。
毎日読書し、noteに連続投稿(昨日で955回)を続けていますが、これで気持ちが落ち着くことはなく、モヤモヤとしたものが消えることはない。
だから、瞑想の必要性は十分に理解しているが、ハードルが高いため、取り敢えず写経と般若心経を毎日唱えていると、落着くこともあるので、これを継続していくしかないというのが現在の着地点です。
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