息をする理由
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友人のツイートを見て、最近の自分のもやもやの解像度がぐっと上がったので忘れないうちに書き留めておこうと思う。
将来に対して全くモチベーションがわかない。
「将来」をもう少し具体的に言うと、卒業や就活である。
就活を頑張っている周りと関わっていて、他意なく心の底から応援していたしできることはやっていたけれど、そんなに頑張れる理由がわからなかった。自分のことや自分のしてきたこと、理想などを一生懸命語ることが、わたしにはできないと感じていた。
卒業も、なんでしなければならないのだっけ?という疑問が浮かんでから、あまりポジティブにとらえられなくなってしまった。別にネガティブでもないけれども。
私は中学生の時にぼんやりこんなことをやりたいなという夢をもった。高校生の時にそのやりたいことに具体的な名前(職業)がついた。大学でその専門分野に導かれた。あとは専門内でそれなりに就活して卒業さえすれば、おそらく夢をかなえることができる。
でも、いつからか、その夢は色彩を失った。温度感もなくなった。なりたかったはずのものが、それに向けたキャリアを積み重ねていくことでならなければならないものととらえるようになったからだと自分の中では解釈していた。そして、別にその夢かなえられなくてもいいな、とか、だったら卒業も進学もしなくてもいいのかな、とか、はたらきたくないな、とか、漠然と思っていた。
おそらく、そうじゃない。
おそらく、大学3年生になるくらいでわたしは課題意識や好奇心、向上心みたいなものをどこかに置き忘れてしまったのだ。これがしたい、こうなりたい、こうありたい、とかいう感情を、情熱を、息をする理由を。
それまではずっとそういう衝動に突き動かされて生きてきた。行動が供わない矛盾を自分の中に抱えながらも、理想だけは常に掲げていて、煌々と燃えていて、行くべき道を照らしてくれていた。苦しかったけれど、その分エネルギーに満ちていて、息のし甲斐があった。
それが。理由はまだはっきりしないけれどもぱったりとなくなってしまったのだと気づいた。20歳を過ぎた年齢のせいなのか。ありのままの自分を受容してくれる存在ができたからなのか。苦しさから逃れるためにそぎ落としてしまったのか。なくなってからもインターンやコミュニティーや個人との出会いには恵まれているが、いまいち煮え切らない。それはそれでよくて、受け入れていけばいいのかもしれないけれど、それまで20年ばかししてきた息の仕方の方が価値を生んでいたように思える。それと比較したここ2年間に納得感が持てない。惰性で息をしているように思えて、嫌になる。
そしてこのタイミングで卒業研究の佳境と院進する説明責任が降りかかってきた。だからこそこのタイミングなのかもしれないが。
今のところ死ぬ理由もないし、とりあえず惰性で生きながらえているが、なんだかなぁという気持ちである。将来に対して、という書き出しにしたが、そういえば今に対しても大したモチベーションがない。とりあえず惰性でこなしている。
打開策が見えない。
やわらかであたたかな1日になりますように。
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