イエのためなら家庭を捨てる
昨日、スピリチュアルとジェンダーについて研究をされている橋迫瑞穂先生の講演を聞く機会に恵まれた。私自身、3.11以降に脱原発の流れを受けて、自然派をいっちょかみしたため、とても自分に当てはまる傾向として興味深くその分析を伺った。
特に興味深かったのは、「子宮系努力型」というお話(全体の話はかなり割愛し、ここだけ切り取ります)。「温活」や「自然な食事」、「布ナプキン」などがそれにあたるわけだが、つまり、「自分の努力」によって子宮力を勝ち取り、もしくは近づき妊娠に見合う身体を作る、というもの。たしかに、食事も身体を温めるのも、日頃の自らの生活を変えていく「努力型」。ふーむ、なるほど。
ただでさえ、女性は忙しく働いて、出産のタイミングに焦っている、というのにさらに頑張るのか?と疑問に思うのだが、それほどまでに現代女性(日本いおいて)が子を授かる、ということがいかに困難な状況であることの裏返し、だと説明する。つまり、忙しすぎて食事にすら気をつけることもできない日々に、食事から少しでも変えていける、というわけだ。それにこれまで自らの身体をいたわらずに日々を過ごさざるをえなかった身として、自分をいたわることに背中を教えてくれる自然で丁寧な食事のありようは、精神的にもすがりつきたくなる言説なる、というのが背景にあると説く。
ふむふむ。そして、不思議なことに、女性にばかり特化している、と指摘する。なぜ、妊娠はカップルの取り組みであるにもかかわらず、女性の努力にばかり話が集中するのか。橋迫先生は、もはや男性には諦めなのだ、という。ぎゃはは、、、、(笑えない現実)
そういうわけで、温活や妊活は、もっぱら女性に特化されているというのが昨今の状況。ちなみに、スピリチュアルが消費文化と結びついたために、より広く手軽に多くの人がスピリチュアルに振れやすくなった。そのため、スピリチュアルなことは基本的に消費行動なのだ。という説明も、すごくしっくりきた。布ナプキン買ったな〜。冷えとりとかね、、、
でも、身体を温めるのはいいことだと思います。冷えたら、実際、調子悪いからね。
ところで、ここで一つの疑問が。女性は、こうして女性性と強く結びつけられ、「母性」や「母」を強調されるわけだけども、一方の男性性はどうなんだろう?なぜ、男性は、父になることをへの変化について語られないのだろうか。
私は、妊娠・出産における「男性の排除」が、結局のところ男性の育児の対等性を奪っているのではないか、と思ったわけです。女性は(私も含め)、一度産んでみろ!くらいの言葉で八つ当たりをしたことはあるでしょう。いや、私はむしろよく言った。男性は、どんなに努力しても否定され、お前にはわからない、と言われ続ける。これって、つまりわかってくれない怒りではあるけれども、同時に妊娠・出産で男性を排除していることになりはしないか。それなのに、育児においても、再び、お前はわかってくれない、と鬱憤を爆発させる。確かに、男性の育児参加において社会的な構造は一番の問題なのだが、そのことが結局のところ、「男性にもはや諦め」であり「女性に特化した」子宮系努力型が誕生し、結果的に男性に諦めた女性が妊娠・出産の舞台から男性を排除する、という構図なのではないだろうか。だから、なかなか家事の対等性だったり育児の対等性というものが遅々として進まない、という現状が生まれているのではないか。女性は追い込まれ、結局自分で自分の首を締めている、、、不憫だ、実に不憫だ。
夫は、自分の仕事よりも早い朝4時起きで、実家に帰り地域の奉仕作業に駆り出された。日曜日に、2時間以上をかけて。いや、それくらい仕事頑張ってくれよ。そもそも、息子をそのように使うなよ、とも思うが、イエを守ることこそが優先される価値観においては、仕事よりイエ、家庭よりイエ、となるわけだ。恐ろしい。
「家族」ってブラックボックス。
だから、DVやら虐待がいつまでも表に出てこない。暴力が表沙汰になりにくいくらいだから、親子のこうした関係は、地域のこと、イエのことで片付けられ問題すにらならないわけだ。本人だって、もしろ受け入れている。あぁ、恐ろしい、、、
と、いう状況を変えることができないのは、なぜか。
ちょっと飛躍したが、つまり、妊娠・出産から男性を排除している以上、なかなか家族内での変革は起きにくいだろう、ということ。あー、先は流し。
なので、どんどん妊娠・出産について、夫婦で「対等に」取り組み、「父性性」や「父になること」あるいは「親になること」について語り始める、ことこそがはじめの第一歩になり得るだろうと確信したのでした。
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