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インターネット的、朝の風景

静かな朝。ではなく、朝は静かめな我が家。
夫は、起きたそばから携帯にPCにと、チェックを始める。こちらは、朝食の準備をしたりとしているが、すっかり画面にのめり込んでいる。
仕事のもあれば、新聞を読む感覚でネットニュースなどをネットサーフィング。けれども、朝は、子どもも起き始めて、自分たちのことだけではなく、子どもの相手も必要な時がある。しかし、朝の夫は、6時間ぶりに開く携帯、PCに意識が集中しがち。そんなわけで、会話が少なくなる。私は、ときどき、こうした彼の行動にイラッとするわけで、今日もイラっとしていた。

が、少しこうも考えてみた。最近読んでいる糸井重里氏の『インターネット的』(まだ、途中)では、インターネットが広く利用され始めて、インターネットがもたらす時代ががこれまでの時代とどのように異なってくるのか、について鋭い視点で書かれている。そこでは、ほほう!と自分の中でイメージが広がった例に、人との出会い方について書かれていた。
これまで人は、直接会ってでしか知り合えなかったけれども、これからは先に相手のことを知ってから会うことができる、という話。その方(後者の方)が、より合理的に初対面を果たすことができる、とか。なるほど。これは、多分すごく肌感覚で、怖いじゃん、ネットで知り合った人と会うなんて、と思うか、全然知らない人と直接会うなんて、その方が怖いじゃん、と思うのか、、、
確かに、オンラインでの会議など当たり前になってきたので、そこで初めまして〜、なんてのはよくある話ではあるけれど。このようにして、肌感覚が変わってくるのが時代が変わっていく、ということなのか、なんてことを思っていると、私が朝に感じる違和感も、子どもにとっては当たり前のことになるかもしれない、肌感覚で。
なぜなら、夫は、雇われの身の会社員ではなく、ネットが広がったからこそ可能となっているフリーランスなのだから。そう、私たちはインターネット的に働き、インターネット的に生活をしているのだ!親世代には、このフリーランスの仕事の有り様が全く理解できない模様。肌感覚で違うから。
だから、私は「インターネット的」な感覚の朝はどんなのだろう?と、考え始めたわけだ。私がなんとなく違和感に感じても、それはもしかしたら本質の部分ではないのかもしれない、と。例えば、新聞を読み耽っていても同じだし、電車の中でスマホばっかりいじってキモ!って思っても、おっさんたちがこぞって日経新聞を広げている通勤電車だって同じはず。だとしたら、私が感じる違和感は、何を見ているか、ということではないんだろう、とすると「もう、携帯ばっかり見るのやめてよ!」という自分の言葉が、果たしてそれでいいのかな?と自分で疑問に思うようになったわけだ。携帯、PCを見ていても、違和感を感じない態度とはどういうものか?
インターネット的な朝の風景を、自分なりに探ってみたい。
*写真は、3連休の初日に街に挑んでしまい、ゼイゼイ息切れ気味で帰宅したが、久しぶりに服を買ってやっぱり気分が上がった、というもの。

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