無くしたもの見つけた
若者との些細なコミュニケーションから感じたこと
島に最近、喫茶店ができた。
20代の若夫婦が一からDIYで古い納屋を店舗に創り変えた。
店は週末だけの営業。その他は夫婦それぞれ2つ以上の仕事を復業している。
数年前から今の生活を計画して、難しいとされる喫茶店の経営をしながら、様々な仕事をする彼らの行動は、なにか普遍的要素を持っている気がしてなりません。
話は変わり、少し前に若者のキャリアプランについて話す機会があって、
「そもそもキャリアって何だろうと思う」
と言われて、
「そう、今の時代は収入くらいにしか言えないよね」
キャリア、ライフプラン
なにが自分の財産だと思うか?という価値観はこの20〜30年で随分と変わった気がします。それは社会が様々な要因によって変化したから。
ただその中で、変化しなかったものが彼らの喫茶店にあるのではないかと思うわけです。
また話は変わり、少し前の記憶
会場から質問が上がる。
「定職に就かなくて不安はないのか?長く勤めれば身につくものもある」
こんな事を聞かれればニヤリと笑みで返すしかありませんね。
若さに理由を求めるナンセンスは、20年前も今も変わりありません。
時代の中にあっても、時代を感じる能力は歳とともに衰えていき、収入を得て財産を築くことは、人生における重要な目的なのか?と言う問いが生まれます。
家と車を買い、子供を育て、旅行に行き、趣味を見つけて仲間を作る。
これらを財産と表現し、他者へアピールするスタイルは古今共通です。
「なくしたものみつけた」という五味太郎さんの絵本
リモコンのブルドーザーを動かしていたら、昨日なくしたスコップを見つけた。スコップで地面を掘っていくと、いつの間にかなくしていた物も次つぎ見つかった。赤ちゃんのベッドは昔使っていたものなのか。その隣でいつの間にか眠ってしまう。ハッと目を覚ましてブルドーザーのところまで走っていく。
そして最後に
「よかった。なくしたかとおもったよ。」
と言って締めくくられます。
古き良き、懐かしい思い出と今を繋ぐものは、その時代の価値観ではなくて、
きっと、
もっと別のなにか。
理由が分からなくていい
形に残らないものこそ価値がある
さて、なくしたもの
探しに行きますか