地域社会を維持するものが感情を動機としているならば
これからのビジネスは、文化的価値を高め、デザインを纏い内発的な美意識を表出させることで高付加価値な商品、いや寧ろ作品と言えるようなものが好んで求められるでしょう。
地方においては、バックキャスティングでサービスを設計し、その水準を上げながら、その土地にしかない価値をどのように提供するかが地方で稼ぐカギと考えられています。
大きな組織でなくても、経営の旗を握る者はその目的を掲げ、目標達成の最短距離を計画書に書き記す。
サービスの指針を可視化して、全体共有のために日々同じことを繰り返し説きながら、従順な社員を求めて見事なスマイルが写された広告で人を求める。
満たされた社会において、これ以上何を注ぎ込もうとするのでしょうか?
これはつまりは、満たしているものが求めているものと本質的に違っているということなのかもしれません。
私の住む地域は複数の職を持つ人が多く、その経緯は、それぞれの仕事の需要が少ないことから生まれた合理的な働き方です。
ある人が一つ職を失いました。
飲食店を経営していて、そこは安くて大盛り。社会的な物価上昇があっても値段も量も変えません。採算度返しでやってこられたのは他の仕事で手当てができていたからでしょう。そうなるとこれからは今まで通りにはいきません。
値上げしないんですか?と尋ねても答えが返ってきません。
「来た人に喜んでほしい。ガッカリさせたくない。」
その想いだけで持続可能は不可能では?と思ってしまうのですが、でも
続けてほしい。
と思ってしまうんです。いつも笑顔で、もてなしの心が伝わってくるお店が無くなってしまうのは困ります。
自分に何ができるのか?何が返せるか?と考えたりします。
受け取ったものが言語化できなくても、受け取ったものは確かにここにあって。そして、それがあったから助けられたり、救われたりしてきたのだから。
個人の感情が動機となって地域社会が維持されていくなんて言うことがある気がします。
腹が減ってる人がいれば、メシを食わせるし、宿がなければ泊めてあげる。
互助共助と言う単語はいつの間にか苔むしてしまいました。でも、そういうのを「社会」と呼びたいし、そうであってほしいですね。