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目には見えないけど存在する空気、世間④
前回の記事では、世間での関係はどのような
ものか、世間の果たしてきた役割や、
世間が崩れている流れ、そして、空気との関係を
書きました。
世間や空気について、少しわかってきたかも
しれませんが、世間と同じようなものに、
「社会」があります。
"現代社会"、"社会構造"、"社会保障"などで
使われる、社会のことです。
「世間」と「社会」はほとんど同じものでは
ないか、と思う方もいるかもしれません。
私はそう思っていました。
しかし、「世間」と「社会」は異なるもので、
日本には、「社会」が存在しないというのです。
そんな馬鹿な、現に社会は存在しているじゃ
ないか、と思われるかもしれません。
どういうことか、順番に書いてみたいと思います。
まず、「世間」と「社会」の違いについて見て
いきます。
「世間」=自分に(利害)関係のある世界
「社会」=自分に(利害)関係のない世界
これまでの記事で、「世間」については、
上記のように定義しました。
「社会」は、「世間」とは反対に、自分と関わりのない世界のことを指すのです。
下記の記事で説明した、世間のルールのうち、
4.差別的で排他的、の例を思い出してみて
ください。
電車に乗ってきたおばさんが、他に乗客がいる
にもかかわらず、後からくる友人たちのために
席とりをする話です。
この例で、「世間」と「社会」の違いをみると以下のようになります。
「世間」=おばさんと友人との関係
「社会」=おばさんや友人たちと、他の乗客たち
との関係
おばさんは、自分と関係のある世界に属する友人
だから、席をとる、ということをしたのであって、
これが自分とは関係ない、見ず知らずの人に対してであれば、席をとる、という必要はないのです。
たまたま主語がおばさん、になっていますが、
おばさんだけではなく、老若男女様々な主語に
置き換えて考えることができます。
次に、「世間」と「社会」の成り立ちの違いを見て
いきます。
「世間」=利害関係を前提としてできたもの
「社会」=個々人を前提として構成するもの
「世間」は、利害関係、主に経済的なメリット
を前提とした集団、組織、場であり、個々人を前提としておらず、一方、「社会」は、個々人を前提とした集団、組織、場となります。
日本人は元々、「世間」の中で生きてきましたが、
明治になって、西欧から様々なモノや習慣、概念
などが輸入され、そのなかに、「社会」や「個人」もありました。
「世間」について研究をした、阿部謹也氏が、
"「世間」とはなにか"、という著書の中で、
明治になるまでは、日本には「社会」や「個人」というものがなく、日本でいわれる「個人」と、
西欧の「個人」とは似ても似つかず、「社会」
という言葉は、学問やマスコミなどの分野では
使われるようになったものの、一般の人々の
なかでは、相変わらず「世間」が存在した、
ということを述べています。
つまり、日本では、明治時代以降、西欧にならい、
国会、裁判所などの機関や、教育、税などの概念を導入し、それらの説明をするために、「社会」や「個人」という言葉が必要になっただけで、
実際には、依然として日本人は、個人という存在を意識せず、「世間」の中で生き続けてきたのです。
学問の中で対象とされるのは、「世間」ではなく、
「社会」であり、マスコミなどで取り上げられる
対象も、ほとんど「社会」のことで、私たちは
当たり前のように、「社会」で生きていると
思いがちですが、そうではなかったのです。
そもそも、利害関係を基にした、「世間」ありきの「個人」と、「個人」ありきの「社会」という点
から見ても、日本にあるのは「社会」ではないと
言えるのではないでしょうか。
"「空気」と「世間」"のなかでも述べられていますが、日本人は、「社会」=建前、「世間」=本音、
という2つの世界を使い分けて生きてきたのです。
私は今まで、自分は社会の中で生きてきたと思って
いたら、「社会」は建前で、実際は「世間」の方
だったと知ってショックを受けました。
学ぶための学校や、学ぶ対象である学問などは、
「社会」の側なので、「社会」があるというのが
前提であり、社会とはなにか、どうしていくのが
いいか、ということを考えます。
しかし、現実の生活の場である「世間」を
前提としていなければ、「社会」についてあれこれ議論したところで、机上の空論、理想論、綺麗事、
になってしまうのではないでしょうか。
そんなこと学校で教わってこなかった、
知らなかったとしても無理はありません。
なぜなら、学校は「社会」の側の存在であり、
「世間」の存在を前提としていない、学校自体が、「世間」を知らないから教えようもない、あるいは、「社会」について教えればいいので、「世間」については教える必要がないからなのです。
いくら「社会」について学び、社会のことを
考えようとしても、「世間」のことを知ら
なければ、努力は空回りし、それどころか、
「社会」にとっての利益と、所属している「世間」の利害が一致しなかった場合、「社会」から
ではなく、「世間」から制裁を受ける場合も
あるのです。
「社会」としては、犯罪が増えていることを考え、刑務所を増やすことが必要だと考えても、「世間」からすると、自分たちが住む地域に刑務所ができるとわかった途端、強硬に反対運動をする、という、
ダブルスタンダードのような状態が起きることも
あるのです。
この記事では、「世間」と「社会」との違い
について書いてきました。
世間や空気について色々と書いてきましたが、
次回が最後になる予定です。
日本には、海外のように唯一絶対の神はいませんが、その代わりを「世間」がしていた、ということを書いてみたいと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。