フッサール現象学の詩学

気持ちのいい天気ですね〜

最近、ようやくというか、フッサール関連の書籍をなんとなく読み連ねていまして、昔勉強したことを思い出したり、いまになって気づきがあったり、そこまで追いついていなかった、いわゆる「発生的現象学」の時期について、ちょっと興味ができたり、いろいろしているんです。

フッサールというのは、20世紀の哲学のスタイルの「現象学」というのを創始した哲学者で、わたしが関心を寄せていたサルトルやデリダも、このフッサールを、フランスで研究していた哲学者なんですね。なので、ずっと興味はあったんですが、大学にいるとわたしはフランス系の学者で、ドイツ語のものはドイツ系の方に、みたいな分業も発生してしまうわけです。

でも、大学離れ、そういういろいろもどうでもよくなったので(苦笑)、また読み始めたわけです。

いろいろ調べてみると、日本国内って、フッサールの弟子だったハイデガーについては異様にたくさん研究書があるんですが、フッサールに関しては意外とそこまででもないんですね。わたしなどでも、読もうと思えば全部読めるくらい。

で、やっぱり、フランスでユダヤ系の知識人と付き合ってきたわたしとしては、ハイデガーよりはフッサールを推したい気持ちもないではなく、「いまこそフッサールだ!」と思いいたったのでした(フッサールはユダヤ系、ハイデガーはむしろ、戦時中ナチスに共鳴してしまいます)。

具体的には、デリダの初期のフッサール論や関連のテクストが入り口なんですが、同時に、先に書いた「発生的現象学」の時期のこと少し知りたくなり、(以前、非常勤でいらしていたときに授業を受けていた)貫成人先生の『経験の構造』なんかを楽しく読んでいたんですね。

フッサール研究なんかも、おそらく、系譜や派閥があって、なかではいろいろなんでしょうが、貫先生のこの研究はおそらくニュートラルで、素人目にみても、初学者にも入りやすく、しかし、学問的に強度を持っているものなのではないかと感じられました。少なくとも、わたしらの世代から、こういう研究が出てくるとはもはや思えない・・・。

そのうち、『受動的綜合の分析』なんかも、挑戦してみたいですけど。

で、もちろん、大したこと書けないんですが、久しぶりにフッサール(関連)のテクストに触れて思うのが、フッサールのテクストってやはり読みづらい、ということなんですね(苦笑)。それこそ、ハイデガーの『存在と時間』なんかは、固有の用語さえ掴んじゃえば、わからないなりにグイグイ読めるんですが、フッサールの著作はそうはいかない。

で、その理由のひとつが、フッサールが使用する用語にあるのではないか、と思い至ったわけです(読まれている方は、わたしが言わんとしていること、わかってくださると思うんですが・・・)。

で、より具体的に言うと、フッサールが、真に新しい哲学を創始しようとしながら、しかし、かなり哲学史に忖度して用語を選択していることに原因があるのではないかと思ったわけです。

例えば、「現象学」という名称だって、哲学史上にはヘーゲルの『精神現象学』という著作があるんですね。新田義弘さんの『現象学とは何か?』みたいな本格的な概説書を読めば、その違いもわりと明確にわかるのですが、しかし少なくとも、「同じ用語だが違う」ことを示さなければならなくなる(苦笑)。

あるいは、「超越論的現象学」なんていう表現もあるくらいで、フッサールの哲学はひとつの「超越論哲学」とされることも多いのですが、そうなると、カントの哲学との違いが問題にもなりうる。たまたま手元に、Husserl, Kant and Transcendental Phenomenologyなんていう英語の論集もあるのですが、つまり、フッサールの「超越論哲学」とカントのそれがどう違うのか、みたいなことが、次の世紀にいたるまで議論され続けるような微妙さなんですね(苦笑)。もちろん、フッサールとカントの比較というのは意義深いものと思いますが、「なら用語、初めから変えてよ!」と思う部分もなくはないのです。

(それこそ、貫先生が訳された『フッサールとフレーゲ』なんかも凄まじくて、フッサール(現象学)とフレーゲ(分析哲学)の比較って興味深く、「意味」をめぐる議論でふたりの哲学者って近接する部分があるらしいのですが、それぞれのドイツ語が違う含意を持っており、邦訳の伝統では別の日本語が割り当てられていたりするんですね。「「意味」と「意義」は違って、でも、こっちの哲学者においては・・・」みたいな感じで、真面目に追えば追うほど混乱するというか、ほとんどジャック・デリダの脱構築くらい複雑になってるんです(苦笑)。)

あとは、フッサールがブレンターノという先達から受け継いだ「志向性」という概念も元々は中世哲学の概念だというし、「自我」をめぐってはライプニッツが使うような「モナド」なんていう表現も使用される。それこそ「発生的現象学」期の「連合」概念についてはヒュームやコンディヤックのような近代哲学が発想源ともいう。

おそらく、もともと数学研究で出発したフッサールは、自分の思考をきちんと哲学史に乗せるため、先行する哲学者たちの用語をそれとなく自分の体系に組み込んでいったんじゃないかと思うのですが、その結果、それらの用語の含意の微妙な違いみたいなものが、議論の対象になるまでの状態になっているわけです。

それこそ、デリダなんかは、その微妙な用法まで議論に組み込んでいるような気がし、「現象学」が言っていること(what phenomenology says)と同時に、「現象学」が言っている仕方(how phenomenology says)が興味深いような、そんな事態になっているようにも思うわけです。

昨今の哲学研究では、むしろwhatの方を重視して、論文などでもわかりやすい言い方で書き換えていくんでしょうが、わたしはもともと文学研究もかじっているので、どうしても後者のhowの方も気になってしまうんですね。上記のことも、言ってみれば〈フッサール現象学の間テクスト性〉みたいな問題として捉えることができるような気がしており、そこを無視してはわたしはフッサールを読めないだろう、とそんな気がし始めたのでした。

まあ、ドイツ語についてはハンデがあるし(というかほとんど読めないし…苦笑)、結局は仏訳や英訳をみつつ、邦訳で読み進めることくらいしかできないんですけどね・・・。まあ、でも、いまの日本でフッサールを読むひとってそんな多いとも思えず、それはそれで「クール」かな、と。

「自分自身、現象学者であるべきだ!」とかはあまり思わないですけどね(笑)。

ただ、英語教育なんかに携わっていると、『内的時間意識の現象学』なんか、やっぱり面白いと思いますけどね。速読のトレーニングなんかでもretention(記憶)なんていうのが問題になりますが、フッサール哲学ではこれはRetention(過去把持)ですよね。現象学の、〈減らしていく〉「還元」(Reduktion, reduction)の発想なんかも、ある意味、第二言語習得論みたいな言語的・心理的科学とつながる部分がある気がしますし・・・。

Have a nice reduction!
栗脇

いいなと思ったら応援しよう!