ベルナール・スティグレール『技術と時間』より

「しかし、技術〔テクネー〕は、何よりまず実践知を指している。しかし、実践知でないものがあるだろうか? 礼儀、品位、料理は実践知である。いずれにしろ、料理だけが、生産、材料、原料の「二次的物質」あるいは製品への変容に関わっている。それゆえ、料理は『ゴルギアス』でのように、技術、生産的な実践知、物質に形を与えるものと容易に認識される。それは、制作〔ポイエーシス〕の操作者としての職人をモデルとするが、そこから技術が伝統的に理解される四原因の理論が展開する。
 ダンスは、スペクタクルを生み出す。優美さもまたスペクタクルではないだろうか? ダンスは技術である。ダンスは、優美さと同様、必ずしも他の人のために生み出されるのではない。それは、他の技術と同様、作用因を満たすばかりだ。修辞学や詩もまた技術である。どんな言語活動にも、詩的なところと修辞的なところがある。言語活動自体が、実践知として、技術、金になることもあるやり取りではないだろうか? 実践知を前提にした言葉は、話す人の「占有物」ではないにしても、生産的である。それは言表を生み出す。言表は、技術の他の産物と同様、売れるときもあればそうでないときもある。このように、技術の領域を限定するのは困難なのだ。
 あらゆる人間的活動は、技術〔テクネー〕と何らかの関係があり、ある意味で技術である。それでも人間的活動の総体で「技術」は分離される。それがたいてい意味するのは、専門化し、すべての人に共有されてはいない実践知である。つまり、職人の技術、あるいは医者、建築家、技術者と同じく哲学者、芸術家、弁論家の技術だ。技術とは、ある人が人間であるのに不可欠ではない実践知なのである。人が暗黙裡に抱いている理解は、このようなものである。本章では、それが技術とは何であるかについて不十分で、限定的、派生的な理解なのを示すだろう。しかし、民族学的環境における技術環境の構制、そして、領土からの引き剝がしが可能になるのは、この差異(専門化)によってである。」

ベルナール・スティグレール『技術と時間1』石田英敬監修/西兼志訳、法政大学出版局、2009年、132~133ページ。

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