加藤周一「文学の概念」より
「しかし文学を、科学から区別するのと同じやり方で、日常生活から区別することは困難であろう。日常生活の経験は、文学的な面を含むと同時に、また科学的な面も含む。日常生活における経験は、文学の出発点ともなり得るし、また科学の出発点ともなり得る。八百屋でレモンを買う主婦は、多かれ少なかれレモンを商品としての、また食品としての一面からみて、そのレモンの他の性質を無視するであろう。またそうするからこそ、主婦の経験は蓄積され、法則化され、上等のレモンを安く買う買物上手にもなり得るのである。梶井基次郎流のレモンの経験は、主婦を買物上手にはしない。もっと一般化していえば、およそ社会生活を営む上に必要な知識を、主婦にあたえない。しかしそういう実用的な知識を必要としない子供は(家計をあずかっているのは主婦で、子供ではない)、母親が台所においたレモンをみて、その光沢に惹かれ、手にとってみてその冷い肌触りに、ながく忘れることのない感覚的なよろこびを感じるかもしれない。その感覚はそのときかぎりのものである(あるいはその後何年か経った後、たとえば一人の女の膝に触れたとき、俄にその感覚がまざまざと甦るといったようなものであろう)。古来詩人の心を以て童心にたとえたのには、理由がある。しかしその理由は、子供の心が純真無垢だからではない(純真素朴な農夫が都会人の空想であるように、純真無垢な子供は成人の空想にすぎないだろう)。そうではなくて、子供は社会に対して無責任だからである。責任がないから、その経験を積み重ねて、法則を見出す必要もない。従って経験を分類し、分類するために抽象化する必要も少いだろう。すなわち具体的経験をその具体性において捉えることができる。もし主婦の買うレモンが経済学者の対象にちかいとすれば、子供のレモンは、梶井基次郎のレモンに似ているのである。
総じて経験の抽象化の程度という点からみれば、日常生活の経験は、一方で文学的経験と連続し、他方で科学的経験に連続している。別のことばでいえば、経験の抽象化の軸によって、一方の極端である文学的経験を、他方の極端である科学的経験から区別することは容易だが、その中間の日常的経験から区別することは困難だということになる。」
『加藤周一著作集1 文学の擁護』平凡社、1979年、63~65ページ。
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