メルロ=ポンティ『知覚の現象学』より
「現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこんな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙なことに思えるかもしれない。それにもかかわらず、この問いはまだまだ解決からはほど遠いのだ。現象学とは本質の研究であって、一切の問題は、現象学によれば、けっきょくは本質を定義することに帰着する。たとえば、知覚の本質とか、意識の本質とか、といった具合である。ところが現象学とは、また同時に、本質を存在へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその〈事実性〉から出発から出発するのでなければ了解できないものだ、と考える哲学でもある。それは、人間と世界とを了解するために自然的態度の諸定立を中止して置くような超越論的哲学であるが、しかしまた、世界は反省以前に、廃棄できない現前としていつも〈すでにそこに〉在るとする哲学でもあり、その努力の一切は、世界とのあの素朴な接触をとり戻すことによって、最後に世界に一つの哲学的規約をあたえようとするものである。それは一つの〈厳密学〉としての哲学たろうとする野心でもあるが、しかしまた、〈生きられた〉空間や時間や世界についての一つの報告書でもある。それは現に在るままでのわれわれの経験の直接的記述の試みであって、その経験の心理的発生過程とか、自然科学者や歴史家または社会学者がこの経験について提供し得る因果論的説明とかにたいしては、何の顧慮も払わないものだ。にもかかわらずフッサールは、その後期の諸著作のなかで、〈発生的現象学〉だとか、さらには、〈構成的現象学〉だとかをさえ云々しているのである。〔…〕」
モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学 I』竹内芳郎/小木貞孝訳、みすず書房、1967年、1〜2ページ。