【小説】探偵同盟 中
中 幽霊作家
隣人の附田菜摘は私が熊田麻美のゴーストライターをしていた事を探り当てたかもしれない。
私、油川稔は『ひぐらし園(その)』というペンネームで主に小説投稿サイトに小説を投稿している。固定のファンもつきアマチュア小説家としてはまずまずの充実感を味わう日々を送っていた。主戦場である小説投稿サイトで行われたコンペで佳作を獲り、出版社から連絡を受け、担当編集がつくことになった。
しかし、担当の編集がついたからと言って、すぐに小説家としてデビューができる訳ではない。これまでは締め切りもなければボツもない。自己満足だけの小説で終わっていた。佳作を獲った作品も商業的にはまだ甘いところだらけだとキッパリ言われた。何度も何度もボツを喰らい心が折れそうになったが、小説家になる夢といつもサイトでメッセージをくれるKANAという方からの励ましの言葉で何とか持ち堪えられた。
担当の編集、蜂谷に連れていかれた出版関係者が集まる飲み会で熊谷麻美と出会った。既に読書好き女優として脚光を浴び始めていた彼女は多くの出版社からアプローチを受けていて、蜂谷も何とか熊谷の名前を冠した本を自社から出せないか苦心していたらしい。私が飲みの席に呼ばれたのは彼女と同年代の人間がいれば彼女も心を解きほぐしやすいだろうという理由からだ。蜂谷の作戦が上手く嵌ったのか、熊谷は積極的に私に話しかけてきた。あまり女性との交友関係も肉体関係も乏しい私は、彼女から零れ出る官能の海に溺れかけた。藁をも掴むつもりで酒をいつもより体に迎え入れた。それが彼女を遠ざける手段にはならず、寧ろいつもより気が大きくなり女性と会話ができる時間を楽しんでしまったのだ。熊谷から小説を書いていることを褒められ、今構想中の小説について得意げに話してしまった記憶は酒と一緒に流れてはくれず私の脳髄の奥底に根付いている。
飲み会から3日後。熊谷が自ら小説を書こうと思っており、構想中の内容をSNSに投稿した。その構想は飲み会で私が話したものだった。読書好き女優の熊谷麻美が小説を書こうとしているニュースは瞬く間に日本中の話題を彼女一色に染め上げた。
熊谷の投稿から1週間ほど経った時である。蜂谷から呼び出され出版社の会議室に向かった。蜂谷の目の前には有名な和菓子店の紙袋が置いてある。向かいの席には熊谷麻美と2人の男がいた。熊谷は俯き、男連中は眉間に渓谷を築いている。隣に座れと担当は目で言った。私はその指示に従い隣に腰を下ろした。私から見て熊谷の右に座っているフレームのない眼鏡をかけた投資が得意そうな30代後半の男が彼女のマネージャーの武田で、左に座っている葉巻が似合いそうな恰幅の良い60代の男は事務所の社長、本多なのだという。
自己紹介が終わった後は、会話が弾むような言葉を誰も投げず、会議室の時計の針の音だけが響いた。
「油川さん、申し訳ございません!」
無限に続くのでは思われる無機質な針の演奏が支配する静寂を破ったのは熊谷だった。
「…何のことでしょうか」
本当はわかっていたが、はぐらかしたのは私にとっての細やかな反抗であったのではと今では思う。
「その…油川さんから聞いた小説の構想を軽はずみな気持ちでSNSに投稿してしまって」
「彼女のマネージャーとして、心からお詫び申し上げます。熊谷は酔った勢いでついうっかり投稿してしまったようで」
飲み会から3日も経ってからの投稿するなんて熊谷さんはよほど酒癖が悪いようですね。そんな皮肉が思わず口から出かかったが咳払いでごまかし「そうなんですか」とだけ答えておいた。
「今後は熊谷を初め、弊社所属の者にはしっかり指導をする事を約束する。だからどうか今回の件は公にしないで欲しい」
本多社長が薄くなった頭を私に向ける。体勢は謝罪のそれだが言葉遣いは敬語ではない。正直、人に謝罪するようにも、頼み事をするような心を感じることはできなかった。そもそも飲みの席で話した内容を事細かに覚えていて、それをSNSに投稿するなど偶然とは思えない。いっそ感情の赴くまま目の前の3人の鼓膜を破るくらいの大声で自分の想いを怒りの言葉にしてみようかと思っていたその時だった。
「油川くん。小説を出版したいか」
蜂谷が私の感情の堰の崩壊を止めるかのようにそう言った。突然の提案に怒りの感情が戸惑いに飲み込まれてしまった。
「何ですか。急に」
「いいから聞かせてくれ」
「それはしたいに決まってますよ。蜂谷さんが誰よりも知っているでしょう」
「どんな形でもいいから小説を書いて、本にしたいか」
会話が噛み合わない。蜂谷は何故この場でそんな質問をするのだろうか。
「もういい。蜂谷さん。私から話す」
本多社長は痰が絡まったような咳払いをした後に私に濁った眼を向けた。
「油川くん…いや、油川先生。どうか熊谷のゴーストライターになってくれないか」
その言葉で何故、自分がこの場に呼ばれたのか理解した。人間、理不尽な目に遭うとかえって頭はクリアになり冷静に物事を分析できるらしい。ここまで熊谷の計算だとしたら、彼女はわざわざ私なんかをゴーストライターに仕立て上げる必要はない。ここまで陰謀を企てる頭があれば小説ぐらい楽に書けるはずである。
話はとんとん拍子に進んでいき熊谷のデビュー作のゴーストライターとして小説を書くこと。原稿料と本の印税は全て私に支払われることになった。これは私が提示した条件ではなく熊谷たちから提示されたものだ。恐らくこの先、印税を捨ててでも熊谷が作家デビューすることで、お釣りがくるぐらいの富を得る算段が彼らにはあるのだろう。私は反抗する気力も失せた。世の中こんなものだと思って開き直ることで精神の疲弊を回避した。
1年が過ぎた。熊谷麻美の作家デビューは上手くいったと言っていいだろう。彼女は女優と作家、二足の草鞋での活動で多忙を極めた。私はこれまでにないほどの収入を得たが、他人とまともに交流ができない日々が続いた。自分がゴーストライターであることがバレてしまうのではないかという考えが外界との接触を拒んだのだ。同じような理由で小説の投稿もできていない。しかし小説の執筆には更に多くの時間を費やすことになった。熊谷麻美の次回作の制作が決まったからだ。
附田菜摘と出会ったのは、そんな時だった。この1年は本屋に足を向けることができず
欲しい本は全てネットショップで購入していた。隣の部屋に住むのが女性で、ましては自分と同じ作家のファンであるとは偶然にしては出来すぎている。だが、他人との交流を極力避けていた私にとってはそのような偶然がこの上なく甘美な運命に思えて、彼女と月に一度、近所の喫茶店でミステリー小説の感想や実際に起きた事件の真相を推理し話し合う『探偵同盟』を組んだ。ゴーストライターとして過ごす内に本当に自分が姿の見えない幽霊になっている錯覚に陥っていた私にとっては探偵同盟だけが自らの存在を現世に浮かび上がらせる時間だった。
探偵同盟を結成して半年の現在。議題として熊谷麻美の死の真相についての話を附田が挙げてきた時には血が凍ってしまうぐらい驚いた。今にして思えば、附田は私と熊谷の関係を知っていたのではないかと思う。話す度に私の事を小説家になれると揶揄していた。法律関係の仕事をしていると言っていたが、本当は雑誌の記者なのかもしれない。出版社に勤めていれば熊谷の噂ぐらいは聞いていただろう。現代で人が最も渇望しているエンターテイメントは表舞台で活躍し輝いている人の零落だ。そういう意味では熊谷麻美の死は今最も人々が興味を示している。あれだけ活躍している人間が自殺をするのだから、必ず後ろ暗い真相があるのだろうと。
「やはり油川さんは、この話題にはあまり乗り気ではないようですね」
附田が真っすぐ私を見ている。もしも彼女が私と熊谷の関係の真相を突き止めていて、熊谷の死を他殺だと思っているのなら、成程。犯人は私だと疑っているのだろう。
「そうでもないですよ。ところで附田さんは熊谷さんの死が他殺だとお考えなら、犯人は誰だと推理しますか?」
「あぁ…そこまでは考えていませんでした。では次回の探偵同盟は熊谷麻美が殺されたとして、犯人は誰なのかを推理し合いましょう」
ひと月経った。喫茶店に入ったが附田の姿は見えない。店のマスターとも顔なじみになりいつも座る奥の席へと案内された。
「すみません。お連れ様よりお預かりした物が御座います」
腰を下ろした時、マスターが私に差し出したのは一枚の封筒だった。表に蜩園様とある。そして裏にはKANAの文字が刻まれていた。マスターにお礼を言い、アイスコーヒーを注文した。ほどなく注文した品が届き、運んできた店員の背中が去ることを確認し、渡された封筒を解く。中身を取り出す前にアイスコーヒーを一口飲んだ。苦味が口の中へと広がった。