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それでも、わたしは

いつからか、自分の創作を長文に可視化して、電子の海に流すことをしなくなった。
それは単純にめんどくさいとかそういう理由ではなくて、どれだけ言ったって発信したって世の中は変わらないという絶望感と、そこで生きていかなきゃいけないという理不尽からくるストライキのようなものだった。
それを世間では”めんどくさい”とまとめるのかもしれない。そういうところだ。

でもなぜか、Twitterだけは使っていた。かなりの頻度で更新し続けた。あの140文字と、noteの文字数無制限がどのように関与するのかは知らない。
でも書きたかった。出来事を、思いを。
短くしたら書けるのではないか、誰も登場しない物なら描けるのではないか。ストライキの中でも「これならできる。今は創作が無理なのだ。」と、実例が必要だ。と言わんばかりに。
と、いうことはつまり、自分のことなら書けるのではないだろうか。創作ではなく、出来事なら。

今までは創作を作っていた。私ではなく、誰かの物語。
要は自己顕示欲がすごいのだ。これは私しか見ることがなくとも、多分大丈夫。なんてったって”書く”こと、”可視化する”ことが重要なのだから。


私はかなり生活が下手だ。エスカレーターは上手に乗れないし、コミュニケーション能力は皆無。ましてやすぐ寝込むので生活に支障が出て止まない。
それでも生きなければいけない。いけないなんてことはないのかもしれない。ただ死ねないだけ。勇気がないだけ。
私は生かされている、なんてそんなアニメのワンシーンみたいなこと言っても誰も真剣には受け止めてくれない。でもそう思っている。
朝のニュース、私を求める犬の鳴き声、すべてに私は生かされている。そうでもしないとやってられない。
私の中にあるのはこれっぽっちの勇気一つと、必要とされていると思えるだけの心、そしてまあ少しは健全な精神のみ。

生活が下手だと意欲が削がれる。なんせ生活しようって気が起きない。それでまた下手になる。余裕もなくなる。
今まではきっと、その余裕で他人の物語を生成していたのかもしれない。
そう思うと、少しだけ笑えてきた。私は一所懸命生きすぎている。
多分書くことはやめないけど、もしかしたら創作はやめるのかもしれない。誰かの日常ではなくて、思ったことを徒然と書くような人になっていく方が楽だな。と思った。それでいい。

生活が下手だって、生きていくのに一生懸命だって、好きなことは生きていくために必要だ。と、強く思った秋の夜長でした。

ご高覧いただきありがとうございます。
更新が長らく途絶えましたが、自分のためにも海に返しておこうと思います。えらい。スキやフォローなどはお気軽に…!


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