ハンブルク見下ろす天使について

夕陽が「俺は美しいだろう」とこれ見よがしに黄金みたいな光を投げかけてくる。太陽は女だなんてこの辺の奴らはいうがこんな見栄っ張りな女がいてたまるかってもんだ。それをみてよろこぶことはどこかキッチュなことなんだろうか。脇目をふれば昔あったかもなかったかも分からないアポテーケだ。私はなにも知らない。公園がまさらと白い。訳でもなく。どこか暗い道のニュアンス。少女、10歳くらい。マイナス3度のなか外套の前あけて踏み固められた雪を走る。ボールを蹴る少年ら。足跡から雑草たちが死んでたまるかと頭をもたげている。あるはずのないタイヤの帯が全て黒くして走っている。「それからもう一時間ほど」公園の枠、木々アーチが続いている。整備され、枝葉を切られ、形を整えられ、拳振り上げて踊る悪魔の行列みたいだ。夏は本当に木漏れ日がまぶしくキッチュなのだ。筆記具握る両手。ペンの金具のつく右手の人差し指。メモ帳持つ左手の親指、冷たくて腐り落ちそうだ。

女 男

散歩と買い物を同時に画策することは日々の生活でかんがられうる最も愚かな行為だ。散歩をするには買い物袋やリュックなんて重すぎる。買い物するには寄りたい場所がありすぎる。

意味と無意味を混ぜてはいけないのだとは思う。意味が無意味を侵食すれば生活は過程になってしまう。

カフェもきっと無意味の一部で、俺はカプチーノ両手に抱えて壁のほうを見遣っている。壁には絵がかかっていて、油絵具が塗り重ねられて固められてごわごわと全体像がぼやけている。絵の中を漂っているとHamburgという文字が潜んでいて、それは朝方の霧の出た港の絵だということがわかる。角挟んで隣の壁にもまた絵がかかっていて、通りに囲まれた街の区画を模した四角が所狭しと並んでいて節々にHamburgが刻まれていて、これもまたその街の俯瞰図らしいということがわかる。同じ素材を使った少し大きい絵が反対側にもあって、絵の具がどこか幾何学的にしかしぼんやりした輪郭で塗り固められているその絵はまたHamburgだとでもいうんだろうか。

ピピピという火災報知器みたいな音が遠くから聞こえている。私は火が怖いだろうか。男女の友人たちが噂話をしている。「もう見たことはあるとおもうけれど」目の前には「詩3」というメモ帳を横たえていて、もう数ヶ月か詩を書いたことがない。

胡椒の瓶は首をかしげるみたいにして蓋がはずれそうになっている。横の蝋燭入れが金具の小食をつけた縁取りに赤色のガラスを抱えている。昔似たデザインのグラスが生まれた家にあって、そこにシャンパンを模した甘い炭酸飲料を入れて飲んでいた。誰かの誕生日やクリスマス、グラスは特別の象徴だった。その時のわたしはどんな人間になりたかったのだろうか。今なりたい人間を聞かれたとき私は空虚だった。

しみ カップ 蝋燭 光。詩を書くには特別な語彙が必要だろうか。出なければなにが私には必要なのだろうか。子ども時代に帰るべきだろうか。自身の内部へと向かうべきなのだろうか。そこにしかないんだろうか。

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