携挙の根拠
患難前携挙の明確な証拠
背教の時代。
艱難期前携挙説を信じる者を、同じクリスチャンから攻撃を受ける時代になりました。背教の定義は、英語の「apostasy」は、ギリシャ語の2つの単語に由来している。最初の単語は前置詞「アポ」で、「~から離れて」という意味です。もう1つは動詞の「ヒステミー」で、「立つ」という意味である。つまり、背教とは、「~から離れて立つ 」という意味である。
背教とは、すでに知られている、あるいは以前に受け入れられていた真理から離れることを意味する。
艱難期前携挙説は以前から信じられていた説です。
ただし、それがいつ起こるかは書かれていません。
また、艱難期後携挙説とも受け取れるので、艱難期前携挙説を信じるクリスチャンを攻撃し分断します。
ディスペンセーション主義は、異端だ!
イエズス会は異端の宗教だ!
フリーメーソンはルシファー悪魔崇拝だ! これについては、元フリーメーソンのクリスチャンが悪魔的な儀式を行ってると証言しています。
自称クリスチャンでさえ、様々な真実か、嘘か分からない情報、陰謀論を信じ込み、攻撃の対象にします。
陰謀論の中には、真実もあれば嘘もある。と思います。
しかし、陰謀論を追いかけると着地点は、反ユダヤ主義です。
人の言ってる情報、ネット情報など、これこそ真実だと思えることがあります。確かに本当のことを語ってるように思えることがあります。
情報発信源は本当に信頼できるのか?
テレビでも平気で嘘を流す時代です。
大切なのは、聖書はなんと語っているか?
幼子のように素直に、聖書に向き合えば理解できます。
7年間の大艱難時代とは、天地万物を創造された神の御怒りの時です。
イェシュアを主と認めないユダヤ人、無神論者、偶像崇拝者に対する裁きです。ヘブル語で「イエシュア=神の救い」
その日その時は、ノアの大洪水のようです。
「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。」(マタイ24:21)
イエス様は、世の終わりを予告されています。
天に昇られたイエス様が戻って来られ、地上から悪を除き、世界を回復される、主の再臨の日です。
それは、「ノアの日のように」やってきます。
洪水前も、人々は寸前まで変わらぬ、堕落した暮らしを送っていました。
そのように、主イエスは突如として来られ、畑に二人いれば、一人はとられ、一人は残されます。これが空中再臨(携挙)です。救いと滅びの境界は明確です。
「だから目を覚ましていなさい」とイエス様は言われます。その日、その時は、誰も知らないからです。
携挙とは、教会が天に上げられることです。この場合、教会とは建物ではなく、信者の集合体を指します。教会は使徒の働き2章で誕生しました。この時以降に信者になった人々は、携挙の時が来ると全員天に上げられます。死んだ人は復活し、生きている人はそのまま天に上げられ、空中でキリストに会うことになります。
携挙を教えている聖句には、ヨハネ14:1~3、1テサロニケ4:13~18、1コリント15:50~58などがあります。以下にここで挙げた3つの聖句を見ていきます。
ヨハネ14:1~3
ヨハネ14:1~3は、携挙の描写というよりも、携挙の約束です。ここでイエスは、弟子たちに次のように語っています。
ここでイエスは、「父の家(天)」(2節)に信者たちの住む場所を用意したら、迎えに来ると約束しています。この時、イエスは天から下って来ることになります。そして、信者たちをご自分のもとに迎える、つまり信者を天に迎え入れると語っています。そのため、この聖句は、キリストが地上に降り立つ再臨(地上再臨)のことを語っているのではなく、信者が天に上げられる携挙(空中再臨)を語っていることがわかります。
1テサロニケ4:13~18
使徒パウロは、1テサロニケ4:13~18で、携挙の時に起こることを詳しく説明しています。パウロは、死んでしまった信者たち(13節「眠っている人たち」)はどうなるのかというテサロニケ教会の人々の質問に対し、次のように語っています。
MEMO
13節の「眠っている人たち」は、聖書では信者に対してのみ使う表現で、亡くなった信者たちを指します。信者の死は、復活が起こるまで肉体的活動を休止することだととらえられているので、このような表現になっています。
ここでパウロは「空中で主と会う」(17節)と語っています。つまり、ここで言われているのも、再臨(地上再臨)ではなく、携挙(空中再臨)です。この携挙で、死んでしまった信者がまずよみがえり、次に生きている信者が引き上げられて、空中で主と会います。そのため、死んだ信者のことは心配しなくてもいいとパウロは答えているのです。
ここでは、携挙で起こることが順番に次のように語られています。
主イエスご自身が天から下ってくる
主が号令をかける
御使いのかしら(天使長ミカエル)が号令を伝令する
神のラッパが響き渡る
キリストにあって死んだ者がよみがえる
生きている信者が、死んでいた者と一緒に雲に包まれて引き上げられる
空中で主と会い、いつまでも主とともにいる
この時に、信者はヨハネ14:1~3で約束されていた場所に行くことになります。
1コリント15:50~55
次の1コリント15:50~55も、携挙について語っている聖句です。
ここでは、携挙された信者がどのように変化するかが説明されています。この変化が必要なのは、血肉の体では神の国を相続できず、朽ちない体を持つ必要があるためです(50節)。この変化は、「たちまち、一瞬のうちに」起こります(52節)。
先ほどの1テサロニケ4:13~18でも「ラッパ」の言及がありましたが、1コリント15:52でも「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」と言われています。このラッパはイスラエルの「ラッパの祭り」のラッパであり、厳密に言うと、この時に鳴らされる「角笛」のことを指しています。このラッパの祭りは、携挙を予表する「型」です(中川健一「続・福音の奥義に生きる(5)― イスラエルの祭りとメシアの働き(秋の祭り)」を参照)。このラッパの響きが、携挙が起こるための引き金となります。
また、この箇所では、前後の文脈も合わせて、携挙で受けることになる体について詳しく語られています。この体は次のように表現されています(1コリント15章)。
朽ちない体(42節)
栄光ある体(43節)
力ある体 (43節)
御霊に属する体(44~46節)
天に属する体(47~49節)
死なない体(53節)
以上のような性質を持った体が、携挙の時に信者に与えられます。この体を受けた者は「死なない」ので、永遠のいのちを生きることになります。この点について、ユダヤ人神学者のアーノルド・フルクテンバウム博士は次のように語っています。
この体を受けることで、人間は死に対する最終的な勝利を得るのです。
携挙のタイミング
携挙が起こるタイミングについては、主に3つの説があります。
患難期前携挙説(Pre-Tribulationism)
患難期中携挙説(Mid-Tribulationism)
患難期後携挙説(Post-Tribulationism)
上記3つの説は、キリストが再臨する直前の7年間である患難期(大患難時代)を基準に、携挙が患難期の前に来ると主張するのが患難期前携挙説、後に来ると主張するのが患難期後携挙説、患難期の中間期に来ると主張するのが患難期中携挙説です。
図1:携挙のタイミングに関する3つの説
出典:Laomark氏の作品をアレンジして日本語化(ライセンス:CC BY-SA 3.0)
このサイトでは、さまざまな聖書的根拠から「患難期前携挙説」を採用しています。その根拠の一つが1テサロニケ1:10で、次のように言われています。
「やがて来る御怒り」とは大患難時代を指します。この時代には、未曾有の苦難が地上に住む人々を襲いますが、イエスはそこから信者を救い出してくださると約束してくださっています。つまり、大患難時代が来る前に、信者が携挙によって上げられていると考えることができます。
MEMO
患難期前携挙説の根拠について、詳しくはこちらの記事をご参照ください。
携挙をテーマにした本や映画
携挙は、小説や映画で取り上げられるテーマになっています。
携挙が起きた世界と、その後の世界を描いた小説に、ティム・ラヘイ著『レフトビハインド(Left Behind)』シリーズがあります。邦訳がいのちのことば社から全9巻で出版されましたが、現在は絶版となっているようです。
この小説を映画化したのが、ニコラス・ケイジ主演の「レフト・ビハインド」です。この作品は「パニックアクション映画」というカテゴリに分類されていますが、携挙に関する聖書の教えもストーリーの中で説明されています。また、カーク・キャメロン主演の「人間消失」も同じく小説『レフトビハインド』を映画化したものです。いずれも、携挙の前後が映画の舞台となっています。
YouTubeで無料で視聴できる映画では「Final the Rapture」があります。世界各国を舞台にして携挙を描いています。映画の中では携挙後の東京も描かれ、重要な物語が展開する舞台となっています。
いずれも携挙を具体的にイメージする上で役立つと思います。
携挙に関する注意
携挙は、大患難時代の前に来るということがわかっていても、具体的にいつ来るかまではわかりません。イエスが次のように語っておられるからです(マタイ24:42)。
過去に、牧師や異端の教師が、「携挙はこの日に来る!」と主張して、実現しなかったことが何度もあります。そのため、携挙の教えそのものが疑いの目で見られることがあります。しかしイエスは、そもそも携挙が具体的にいつ来るかはあなた方にはわからないと言っておられるのです。そのため、具体的な年や日付を言って携挙が来るという人には警戒する必要があります。
参考資料
中川健一「Q.250 携挙とは何ですか」聖書入門.com (https://seishonyumon.com/movie/6442/)
Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of Messiah: Revised 2020 Edition (Ariel Ministries, 2020)
Andy Woods, “10 Truths about the Rapture” (https://www.youtube.com/watch?v=pzGeoO84uv0&t=1431s)
聖書は携挙と再臨を明確に分けて語っている
患難期後携挙説は、携挙と再臨を区別せず、1つの出来事であるとしますが、聖書は携挙と再臨をまったく性質の異なる2つの出来事として語っています。キリストが再び来られると語っている聖句をよく読むと、携挙と再臨の箇所では、同じことを語っていると簡単に片づけることができない大きな違いが見られます。以下にその一例を紹介します。
再臨の場所
携挙と再臨の第一の違いは、キリストが再臨する場所に関する違いです。携挙の教えの根拠となる1テサロニケ4:15~17では、キリストは地上ではなく「空中」に来ます(携挙が「空中再臨」と呼ばれるゆえんです)。
一方、再臨でキリストが来られる場所は地上です。ゼカリヤ14:4では、キリストはエルサレム近郊のオリーブ山に立つと預言されています。
MEMO
ちなみに、キリストが地上再臨で最初に現れる場所は、オリーブ山ではなく、現在のヨルダンのペトラという場所であると預言されています(ミカ2:12~13)。キリストは、ペトラに再臨した後、エルサレムに向かうことになります。
「聖徒のため」と「聖徒と共に」
また、携挙と再臨では、クリスチャンの立ち位置が違います。携挙では、1テサロニケ4:15~17で見たように、キリストはクリスチャンのために、クリスチャンを天に迎えるために来られます。
一方、再臨ではキリストはクリスチャン(聖徒)と共に、天から下って来ます(ユダ14)。
黙示録19:14でも次のように言われています。
ここで「白くきよい亜麻布」とは、信者が着せられる義の衣を指します(黙示録3:5、3:18など参照)。
携挙の場面でキリストと共にいると言及されているのは「御使いのかしら」のみです(1テサロニケ4:16)が、先述のとおり、再臨ではキリストと共にクリスチャンが天から下ってきます。キリストが、クリスチャンの「ために」来るのと、クリスチャンと「共に」来るのでは、状況がまったく異なります。
再臨の目的
携挙と再臨では、目的も違います。携挙でキリストが来られるのは、教会を救い出すためです(1テサロニケ1:10)。
この「やがて来る御怒り」とは、大患難時代のことです(黙示録6:16~17参照)。つまり、キリストは教会を大患難時代から救い出すために来られるのです。
一方、再臨では、キリストはイスラエル(ユダヤ民族)を救うために来られます。マタイ23:37~39でイエスは次のように語っています。
最初にイエスが「エルサレム、エルサレム」と呼びかけていることからもわかるように、この言葉はユダヤ人に対して語られています。そして、「『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」という言葉を裏返して読むと、ユダヤ人たちがイエスに向かって「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言う時に、イエスはユダヤ人たちの前に現れる、つまり再臨するという意味になります。それが、ゼカリヤ12:10~13:1で預言されていることです。そして、続くゼカリヤ14章では、主(キリスト)がイスラエルの敵と戦い、勝利することが預言されています。
MEMO
「キリストがイスラエルを救うために再臨する」という視点は、「旧約時代のイスラエルは新約時代に教会に置き換わり、将来のイスラエルに対する神の計画はない」と教える置換神学を信じていると、なかなか受け入れることができないのではないかと思います。患難期前携挙説を否定する人々の思いには、そのような置換神学が潜んでいる可能性があります。
携挙は奥義
携挙と再臨のもう一つの大きな違いは、携挙は新約時代に初めて啓示された「奥義」であるのに対して、再臨は旧約時代からすでに啓示されている預言だという点です(ゼカリヤ12章、ヨエル3章など)。1コリント15:51~52で、パウロは次のように語っています。
1コリント15:50~54は、1テサロニケ4:13~18と同じく携挙の中心聖句ですが、その箇所で携挙が奥義であることが明らかにされています。奥義とは、先述のとおり、新約時代に入って初めて啓示された真理のことです(ローマ16:25参照)。つまり、旧約聖書ですでに預言されていた再臨とは別の出来事だということです。
艱難期前携挙説の根拠
携挙は何ですか?
主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
救いのABC/なぜイエスなのか
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