聖書 世界は悪が支配している 主の日の裁き
諸国民の滅亡
ゼパニア書2章
4まことに、ガザは捨てられ
アシュケロンは荒れ果てる。
アシュドドは真昼にその住民を追われ
エクロンは根こそぎにされる。
5災いだ、海沿いの地に住む者、クレタの民は。
主の言葉がお前たちに向けられている。
カナンよ、ペリシテ人の地よ
わたしはお前を滅ぼし
住む者がないようにする。
ユダの周辺諸国に対するさばきは、すべての「反ユダヤ主義」に対するさばきでもあります。そのさばきは「主の日」になされますが、その「主の日」が真に意味するのは「終わりの日」、すなわち、メシア王国の実現の時を示唆しています。その日の「型」となる出来事が、神の歴史の中にいろいろな形で啓示されています。
●「主の日」は、ギリシア語で「カイロス」(καιρός)です。水平的な時間の流れの中に、突然、上から介入される神の訪れを意味します。その日には、審判と回復とがコインの表裏のように同時に起こるのです。
●神の啓示には「一般啓示」と「特別啓示」とがあり、自然界における啓示と歴史における啓示は「一般啓示」に属します。そして神の御子イェシュアにおける神の啓示は「特別啓示」です。聖書には、神がいろいろな方法を通して、ご自身の御計画とみこころを記しているのです。申命記18章22節に「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。・・」とあります。すでに実現した預言もありますし、これから起こる預言もありますが、最終的には「終わりの日」が来るまでは分かりません。ですから信仰が必要なのです。大預言書のみならず、小預言書にも耳を傾けて、預言書としての整合性を読み取る必要があります。そのためには、注意深く主のことばを聞き取る必要があるのです。
2章4節~15節には、右図のように、四つの地域の国々に対する主のさばきがなされることが記されています。具体的な名前が記されてはいますが、ユダのエルサレムを中心とする周囲の諸国のすべてを象徴していると考えられます。その諸国はすべて反イスラエル、反ユダヤ主義の象徴です。万軍の主の民に対するそしりとののしりはすべて彼らを選んだ主に対するものとみなされ、その高慢のゆえにさばかれるのです。
その地域はやがてメシア王国の中心的な地域であり、新しい聖なる都エルサレム(=回復されるエデンの園)の地域なのです。
ガザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロンの地名が記され、その地域は「海辺に住む者たち」「ケレテ人の国」「ペリシテ人の国カナン」とも呼ばれています。主は彼らのその地を消し去って、そこは「ユダの家の残りの者の所有となる」と預言しています。
「モアブ」と「アモン」はロトの子孫ですが、主の民をそしり、ののしったその高慢のゆえに、彼らの地がソドムとゴモラのように徹底的な壊滅状態となることが預言されています。そして、「わたしの民の残りの者が、そこをかすめ奪う」としています(9節)。
さらに、11節では「主は、・・地のすべての神々を消し去る。そのとき、人々はみな、自分のいる所で主を礼拝し、国々のすべての島々も主を礼拝する」と預言しています。それは、主を知る知識がシオンから流れ出て、全地におよぶようになるからです。八百万の神を拝む日本に住む者たちも、やがてメシア王国においては、日本において主なる神を礼拝するようになるという預言なのです(イザヤ2:3、ヨハネ4:21~24参照)。今日の状況ではとても考えられないことですが、やがてそうなるのです。
「クシュ」はエチオピアのことであり、エジプト人もこの中に含まれると考えられます。その地域は主の剣によって刺し殺されると預言されています。
アッシリヤとその首都ネニベも荒れ果てた地となることが預言されています。ニネベの「私だけは特別だ」とする傲りは、主が「わたしは主、ほかにはいない」(イザヤ45:5, 14, 18, 21)と言うのに等しいのです。ニネベの誇りは、この世界でほしいままに権力をふるおうとする者たちの共通の誇りです。しかし、万軍の主こそ天と地における至高者なのです。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書2章12節、17~18節
12 まことに、万軍の【主】の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。
17その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、【主】おひとりだけが高められる。
18 偽りの神々は消えうせる。