考察(荒川氏のnoteについて)
前回まで10回以上にわたり、荒川氏と私のメールのやりとりを紹介した。分かる人には分かると思うが、「荒川氏」を「被告」、「私」「掛谷」を「原告」と置き換えると、裁判の訴状に使えるような書き方をしたつもりである。本件、既に弁護士に相談しながら話を進めているが、問題は荒川氏が海外在住で、民事訴訟に持ち込むにはハードルが高いことである。荒川氏がここまであからさまな虚偽情報を平然と公開したのも、それを理由に逃げ切れると考えたからかもしれない。荒川氏の言説をもとに誹謗中傷を繰り返した国内在住の人に対しては裁判を起こしやすいので、その可能性も視野に今後の対応を弁護士と検討していく予定である。
以下の記事でも述べたが、私が荒川氏に対して見切りをつけたのは、Twitterスペースにおける荒川・新田対談であった。
このとき、荒川氏はワクチンに残留したDNAのリスクについて、量は関係ないとの見解を示した。この種の発言を見聞したら、それはニセ科学と考えてよい。あらゆる物質の危険度は量の大小に依存する。猛毒である青酸カリもサリンも分子1個なら体内に入ってもダメージはない。メチル水銀も食物連鎖で濃縮したから水俣病を起こした。
この点について理解を深める上で、私が薦めるのは次の本である。
それぞれの物質には無毒性量(NOAEL)と呼ばれる、動物実験で長期間投与して害が見られなかった量がある。世の中の安全基準は無毒性量に対して、さらに大きく安全寄りになる係数をかけて決められている。
紫外線は危険だが、一切外に出ないで生活する人はいない。X線はそれより遥かに危険であるが、胸部X線写真はみな健康診断で毎年撮っているだろう。あらゆるものの危険性は量に依存する。そのことは、誰もが日常生活を通じて理解しているはずである。
新田氏との対談で、荒川氏は科学者からの信頼を維持することよりも、ワクチンは危険であると熱狂的に信じる人たちからの支持を高めることを選択したのであろう。それゆえ、それ以降の荒川氏の発言は、科学者ならば全く信じないような発言を繰り返している。前回までに取り上げたnoteにも、そうした発言は数多くあったが、それに続くnoteでもその種の記述が含まれていた。
たとえば、私が自らの論文で荒川氏の名前を謝辞で含めたのは、荒川氏に査読を回さないようにするためだという主張がそれである。荒川氏はバイオインフォマティクスでの業績はないので、そういう人にその分野の論文の査読が回ることはもとからありえない。これはプロの学者ならばすぐに気づくことである。
荒川氏本人も言及しているが、荒川氏がnoteで虚偽の事実を並べて私に対する批判を始めたのは、自身と村上康文氏が主張するワクチン残留DNAのリスクやレプリコンワクチンの個体間感染説を私が批判したからである。その批判を封じ込めるために、ウソをついてでも私を叩く必要があったのだろう。
だが、自分の学説を批判されることを「非礼」と言うようになったら科学者は終わりある。自分の学説を批判されたら、それを反駁する実験やデータ収集して提示するのが真の科学者のあるべき姿である。その本来の仕事を放棄して、虚偽の事実を並べ立てて自らの学説に反対する学者の信用を貶める行為は、非礼を通り越して立派な犯罪である。
私自身も、新型コロナウイルス人工説を唱えて、多くの人に叩かれてきた。しかし、それに対してはあくまで学術的に反論を繰り返してきた。私に反論した人を「非礼」と形容し、虚偽の事実で相手の信用を貶めることで自説を守ろうとしたことはない。
荒川氏も村上氏も、自説が正しいと信じるならば、それを今から学会で発表すべきである。論文誌の場合は査読に政治性があり、たとえ信憑性が高い研究成果でも掲載を拒否されることがある。一方、学会発表は学術誌論文と違い敷居は非常に低い。可能性を示唆するデータがあれば、証拠は固まっていなくても発表できる。私も新型コロナウイルス人工説については、これまで分子生物学会やウイルス学会など、多数の学会で発表をしている。
学会発表をしないとすれば、プロに徹底的に叩かれるのが怖いから以外に理由は考えられない。私が人工説を学会発表したとき、もちろん反論はあったが、意外に支持者は多かった。みな、新型コロナウイルスは人工だと思っていても、怖くてそれを正直に言えなかったのである。主流の見解でなくても、学術的に十分な根拠があれば支持が得られるのが学会という場である。だから、学会発表すらされていない学説というのは、基本的に無視して構わないのである。