演劇を終えて変わったこと〜フェイブルマンズを観て〜
演劇が終わってから1週間が経った。
久方ぶりに大きい声を出さない日曜日だ。あの緊張感や追い込まれる感覚が無いと思うと何か少し物足りない気もする。
しばらく前に朝の番組でフェイブルマンズの特集がやっていたので、観たくなった。正直なところはめっちゃ観たい!とまではいってなくて、あぁ良さそうだなくらいのつもりだった。(※フェイブルマンズの話はそんなに深掘りしません)
スピルバーグ監督の自伝的映画
フェイブルマンズはスティーブンスピルバーグ監督自身のことを描いた作品だ。
主人公のサミー・フェイブルマンは幼少期に観た映画をきっかけに映画撮影にのめり込んでいく。彼の母親はピアニストで父親はエンジニア、情熱的な母親と理知的な父親に挟まれながら、苦悩し成長していく。Wikipediaで簡単にスピルバーグ監督の経歴を見てみると、ほぼその通りだった。
理性か情熱か、理系か文系か?
この映画では理性と情熱がテーマだと感じた。理性的すぎて母親との関係を崩す父親と情熱的すぎて家庭を壊す母親。ただ、両者とも理性があり情熱があるところを描くのが面白かった。
エンジニアは技術に対して情熱的だし、家庭を守る母親も最後まで自分の情熱を抑えて理性的に振る舞おうとしていた。どうしても極論にしてしまいがちのこの論議(文系か理系かみたいな話)だが、実際はそんなことはない。
私は理系の中の理系とも言える物理を専攻してきたため、理性的な方だとは思う。むしろ理性的すぎて情緒がなかった気もする。情熱は人を突き動かすために必要なものだ。昔から好きだったサッカーや舞台を今までやってこなかったのは理性的に振る舞ったからではなく、ただ怠惰なだけだったからだと思う。怠惰な自分に火をつける衝動こそが情熱で、その情熱の炎を燃え上がらせるのはむしろ理性な気がする。知りたい、自分の限界を試したいと言ったものはある種の研究欲みたいなもので、理性的だ。
役者として
私が役者なんておこがましい限りだが、一度経験した身からするとプロの役者はとてもとても“やばい”。表情ひとつとっても、歩き方ひとつをとっても全ての所作に意味がある(と感じる)。今までのような映画の見方はできない。この人たちは元々できたのか気の遠くなるような練習をしてきたのかはわからないが、圧倒された。
ある映画を見ながら、同じセリフを同じ声色と同じ表情でやってみて欲しい。たぶん普通はできない。できたとしても、“自分で”その演技を最初から考えられるだろうか?我々が小説を読んで面白いと思うのは我々に想像力があるからだと思うが、だからこそ具現化するのは難しい。人にわかるように自然に演技することは簡単ではない。
演劇を終えて
1年間の演劇を終えて、日々の生活が豊かになったように思う。当たり前の日常は意外と劇的で、自分が簡単なことだと考えていることは簡単なことじゃないと思い知らせてくれたからだ。演劇という非日常が日常生活を豊かにしてくれるのは皮肉なものだが、自分が思っている以上に自分の日常は案外悪くないし、他人は思っている以上に自分を愛してくれているものだ。
私はある一種の強迫観念で人付き合いをしていた節があるが、あなたも必要以上に人に尽くしすぎてはいないだろうか?交友関係を広めることはめんどくさいし、失敗する怖さもある。自分の知っているコミニュティだけで留まるのも、まぁ別に悪いことじゃ無いと思う。それはそれでいい人生だろう。ただ、私はもっと人と触れ合って話をして、熱い想いを持ち続けて生きていきたい。