少弐景資について(史跡)
突然ですが、皆さんは、筑前国の「少弐氏」という一族をご存知でしょうか。中世の歴史が好きな方は聞いたことのある名前かもしれませんが、世間一般的にはほとんど知られていないかと思います。
少弐(しょうに)氏は、13世紀初頭から16世紀中頃にかけて、北部九州の覇権を握った一族です。本貫は武蔵国戸塚郷と推定され、本来の姓は「武藤」でしたが、当主が代々世襲した官職名から少弐氏と名乗るようになりました(正式に任命されていない場合も)。
大宰府を本拠としていたので当然現在の福岡県にゆかりの深い一族なのですが、戦国期に滅亡してしまったため謎が多く、地元でも知る人は少ない印象があります。しかし鎌倉時代から戦国時代の九州を語る上で、少弐氏は絶対に外せない存在です。
ということで今回は、蒙古襲来で活躍した少弐景資という人物を、各地に残る史跡を通して紹介したいと思います。
(参考文献)川添昭二『九州中世史の研究』、渡辺文吉『武藤少弐興亡史』、市丸昭太郎『少弐氏の興亡と一族』、古都大宰府を守る会 編『大宰府の歴史 5』
少弐景資(しょうにかげすけ)1246―1285
少弐氏3代・経資の弟。文永・弘安の役の現地指揮官、蒙古襲来絵詞にも登場する。
文永の役では、日本軍が水城まで撤退しようとした際に景資の射た矢が元の副将軍・劉復亨に当たり、重傷を負わせた。
しかし戦後、惣領である経資と弟景資との間に対立が生じる。蒙古襲来の際に深い関わりをもった安達泰盛が霜月騒動で滅ぼされると、景資は九州に下向していた泰盛の次男とともに挙兵。しかし筑前岩門城において、経資に敗れ戦死した。
博多
まずは九州一の大都市・博多の意外なところに景資の足跡が…。
それがこちら。
博多小学校体育館の壁面ガラスに博多ゆかりの歴史上の人物が紹介されていて、景資もその一人として登場しているのです。
蒙古襲来絵詞によると、文永の役の時、景資はこのあたりに陣を置き敵軍を迎え撃ったということです。
交差点の真中で、博多湾に侵入した軍船を睨みつける日本軍の総大将、
かっこよすぎます...!
鷹島
長崎県松浦市鷹島町には、弘安の役の際、景資が本陣を置いたと伝わる場所があります。
少し上に行くと、景資の像もあります。
この像のある広場からは、阿翁湾を一望することができました。
岩門城跡
福岡県那珂川市には、景資の居城である岩門城跡があります。
文永の役・弘安の役で功績の大きかった景資ですが、弘安8年(1285)に兄・経資および北条氏の軍と戦うことになり、この地で亡くなりました。
麓に立つ景資公に挨拶し、いざ登城!
登城といってもそれほど高い山ではなく、15分ほどで本丸に到着しました。
山頂からは福岡平野と博多湾を一望でき、博多・大宰府の防衛という点で非常に重要な場所であることを実感しました。
墓所
同じく那珂川市、岩門城の麓には景資の墓所もあります。
お供え物の花に、平成の時代に建立された碑…景資を誇りに思い後世に伝えていこうという地元の方々の気持ちが伝わり、感無量でした。
おまけ①筥崎宮
筑前国一宮の筥崎宮も、蒙古襲来に関係の深い場所です。
そして楼門に向かって左側の建物の中には、なんと景資が…!
博多祇園山笠の時の舁き山だったんですね…。
こうして残してくれているのは非常に嬉しいことです。
おまけ②太宰府
太宰府市観世音寺、大宰府政庁跡裏にひっそりとある鎌倉期少弐氏の墓所。
少弐氏初代・武藤資頼と2代・資能の供養塔や、資能・経資の蒙古合戦での功績を讃える碑が並んでいます。
近年、景資顕彰の動きが那珂川市を中心に盛んになってきているので、いずれここ太宰府の地にも景資の碑が建つといいなあ...と思っています。
北部九州で歴史の旅をする際には、景資ゆかりの地も訪れてみてはいかがでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。