イヤサカ 第4章
浜に数人の男が立っていた。円を描く形に並んで輪になっている。何かを取り囲んでいるようだ。
男たちの険しい表情が気になった。
ノジカは彼らの視線が集中する真ん中を覗き込んだ。
ククイだ。男たちはククイを囲んでいる。
山から浜へ吹き下ろす風は肌を裂くような鋭さだ。産み月の大きなお腹を抱えたククイをこの寒さの中に置いておきたくなかった。それに男たちの雰囲気は不穏だ。ここからではククイの表情までは見えなかったが、とにかく、ククイを威圧することを言っているのなら止めなければならない。
砂を踏み締め、歩み寄る。ククイの斜め前に立ち、腕を伸ばして、ククイの腹の辺りに手をかざす。
「何の話をしている?」
ククイが「大丈夫ですよ」といつもの穏やかな声で言った。
少しだけ振り向く。ククイは普段と変わらぬ微苦笑を浮かべている。
「そんな、恐ろしいことを言われているわけではありませんから。姫様が――」
「ノジカだ。そう呼んでほしいと言ってあるだろう」
「ノジカが気にすることは何もありません」
前を向いた。男たちは今度ノジカに語り掛けた。
「そうだ、俺たちは敵じゃあない。ただ腹の子の父親を知りたいだけだ」
ノジカは唇を引き結んだ。
この村に来てからすでにふた月が経過した。年もひとつ越した。カンダチ族での暮らしに慣れ始め、面々の顔と名前を覚えつつある。大雑把な人間関係も見え始めた。
だが、ククイの周辺だけは分からないことだらけだ。
ククイは一人で暮らしている。妊娠しているククイが誰とも生活をともにしていないのは奇妙だ。その上誰も家事や出産準備を手伝おうとしない。
カンダチの人間全体がククイを避けている。
理由が分からない。皆口を揃えてククイは特別な存在だから関わらない方がいいと言うが、なぜ特別なのか、どう特別なのか、誰も具体的には説明してくれない。
妊婦を一人で苦労させるわけにはいかない。
ノジカは時間が空けばククイの手伝いに行くようにしていた。マオキの村では母親や姑がやることをできる限り代行した。ククイはいつもやんわりと拒むが、激しく嫌がるわけでもなく、むしろノジカをなだめるように受け入れていた。
彼女は基本的には穏やかな女性だ。怒るということはめったにしない。いつも笑顔を絶やさず、何に、誰に対しても丁寧な物腰で応対する。自分を無視する村のひとびとに負の感情を見せることもない。時々これはこれで満足して暮らしているのではと思うほど平静だ。本当はノジカの助けなど必要ないのではないかと思ってしまう。面倒見が良く、ノジカは彼女からカンダチ族の料理や裁縫を教わることもあった。彼女を世話しているようでいて、ノジカの方が姉をもった気分にさせられていた。
何もかも受け身で承知してくれるわけでもない。お腹の子の父親の話は絶対に語らない。カンダチ族の来歴や伝統については何でも教えてくれるが、子供のことだけは何度訊いても言葉を濁した。また、アラクマとの面会は嫌がる。ノジカは何度か彼女が彼女らしからぬきつい言葉をアラクマに投げかけているところを見掛けていた。この二点に関してだけ彼女は頑固だ。
ここまでこじれていると余計に何があったのか気になる。
アラクマの子ではないのか。
なぜ認めないのだろう。違うのか。何か不幸な事件があって身ごもったのか。そうであるならこれ以上根掘り葉掘り訊いてはいけない気もする。ノジカはあれこれ想像しつつもいつしか何も言わないようになっていた。
それをこうして男たちが無遠慮に掘り返している。
「何度も言っているでしょう。お話しできません」
ククイが、落ち着いた、毅然とした態度でそう言った。本人がそのつもりならとノジカも援護した。
「話したくないと言っている。そっとしておいたらどうだ」
男たちは「勘弁してくれ」と懇願するような声を上げた。
「俺たちにとっても大事な子かもしれねえ」
「いや、カンダチ族に生まれた子供は誰が父親だってみんな大事にする」
「でも、子供の最終的な責任は男親にあるべきだからな」
「今のままだと苦労するのはククイだ」
ノジカは黙った。男たちの言うとおりだと思った。
「お姫さんにはいつか説明しなきゃならねえとは思っていたが」
別の男が言う。
「ククイの子の父親が誰か次第では戦になるかもしれねえ」
「そこまでおおごとなのか」
驚いたノジカがそう問うと、誰もが真面目な顔で頷いた。
「今ククイの腹に詰まっているのはもしかしたら俺たちの夢と誇りかもしれねえんだ」
「それならなおのこと私は死ぬまで黙っていた方がよさそうですね」
ククイの方を見た。いつもと変わらぬ澄ました顔をしていた。
「この子が火種になるようなら、私はこの子を連れて出ていきます」
「そこまで言っちゃあいねえだろ」
「無理はすんな、俺たちはお前を心配して言ってやっているんだ」
「どっちにしてもカンダチの子だ、ここでみんなで養うもんだ」
「カンダチ族にとって災いとなる子をここで育てるわけにはまいりませんから」
押し問答が際限なく続きそうな気がしてきた。そんな長時間ククイをここで立ちっぱなしにしておくわけにはいかない。ノジカもすべて承服しているわけではないが、最優先はククイの体調だ。半ば強引にふたたび前へ出た。
「とにかく、今はいいだろう。お腹の大きなククイを立たせておくのは違うはずだ、特に今日の浜は風が強い」
男たちが顔を見合わせる。
「生まれてからでも遅くはない。子の顔を見たら誰に似ているかで分かるかもしれないし、お産が済んだらククイの気持ちも変わるかもしれない。無事に生まれるまで待ってくれないか」
男たちはノジカの言葉に頷いた。話の分かる男ばかりでノジカは安心した。
「生まれるまでだからな」
「あまり長くは待てねえぞ。カンダチの未来が変わるかもしれねえんだからな」
「いつか絶対に話してくれると信じているから今日のところはやめにするんだぞ、いつかは絶対教えてもらうからな」
次々とそう言っては草地の方へ向かって歩き出した。
浜にノジカとククイの二人が残った。二人はどちらからというでもなく自然と互いに向かい合った。
「――ククイ」
何と言葉をかけようか悩んだ。言いたくないなら言わなくてもいい、と言ってやりたかったが、苦労するのはククイなのも確かで、言ってしまってすっきりしたらどうだ、とも言いたい。どちらが正解なのだろう。ノジカも自分で言ったとおりに待つしかないのかもしれない。
ククイが口を開いた。
「助かりました。ありがとうございます」
言いながら顔をしかめ、自らの腰をさすった。
「このまま捕まって寄り合い所にでも連れていかれたらどうしましょうかと」
「そうだ、どこかに移動して腰を落ち着けた方が――」
低く呻いて腰を押さえる。
「すみません、彼らの前ではずっと耐えていたのですが、もう、そろそろ――」
「そろそろ? 何が」
突然ククイがその場にしゃがみ込んだ。
次の時だ。
ククイの着物の下半身が濡れて色を変えた。
ノジカは目を丸くした。
破水した。
「ああ」
普段では見られない、焦燥とも不安ともつかない表情でククイが声を漏らす。
「う……生まれる……」
ノジカも「わーっ」と普段は出さない大声を出してしまった。
「移動しよう、こんなところで産んではだめだ」
「すみません」
ククイの手がノジカの手首をつかんだ。強い力で握り締めた。
「すみません……」
その懇願するような声は聞いていて切なくなるほどで、
「大丈夫だ、私が傍にいるからな」
ノジカはその手をもう片方の手で包んだ。
生まれたての赤子はまさに赤く、小さくやわく頼りなくて、ノジカはその子を抱く指に力を入れることすら恐ろしくて震えた。
たった今母親の腹から出てきたばかりの子だ。ノジカがほんの少し何かを間違えるだけで儚く消えてしまうかもしれない命だ。
自分は新しい生命がこの世に生まれ出でる瞬間に立ち会ったのだ。
「赤ちゃん……」
今にも途切れそうな、かすれた声が聞こえる。
「私の……」
すべてを終え、着替えさせられて布団に転がったククイが、そのままの姿勢で、這いずるように手を伸ばす。
赤子を右腕に抱え直して、左腕でククイの上半身を抱え起こした。
「元気な男の子だ」
ククイが両腕で、ノジカからむしり取るようにして赤子を抱いた。包むように、覆うように、背中を丸くして縮こまった。
大きな声が上がった。叫ぶような声は慟哭に似ていたがノジカはそこに悲しみなどないと信じてただただククイの背をさすった。
いつの間にか片づいていたらしい。先ほどまで慌ただしく作業をしていた女たちが揃って戸口に並び、「私たちはもう行くよ」と告げた。
「無事に胞衣も出たし、よほどのことがなきゃもう大丈夫でしょ」
「ひと眠りしたら、また交代で様子を見に来るからさ」
ノジカは「ありがとう」と答えた。
「助かった。やはり産んだことのある女でないとだめだ、私一人では何もできなかったと思う」
床に布の束と湯の張ったたらい、そして焼き魚の膳を置きつつ、「いいよ」と答える。
「ただし、あたしらが手伝ったことは誰にも言わないでおくれよ」
「特にアラクマの周りにいる女たちには。いいね?」
「分かった」
女たちが「やれやれ」「久しぶりの大仕事だったわ」と言い合いながら産屋を出ていった。ノジカは温かい気持ちでそれを見送った。
「ノジカ」
顔を上げ、ノジカの胸に額を寄せつつ、ククイが言う。
「ありがとうございます」
一時はなぜひとを呼んだのかと、一人でも産めると言い張って暴れていたものだが、今は憑き物が落ちた顔をしている。お産の痛みはククイほど落ち着いた人間からも理性を奪うらしい。ノジカは自分も将来こうして子を産むのかと思うと少し不安だ。
鬼女のように荒れ狂い、獣のように唸り声を上げていたククイが、ただはらはらと涙を流しながら赤子を抱いている。上気した頬、乱れた黒髪が頬にかかるさま、首筋を流れる汗、何もかも、今の彼女は過去に見た中で一番美しいと思った。
終わったのだ。無事に済んだのだ。
「どんな苦しみも一人で耐えられると思っていました……自分はとても我慢強くてたくましい女なのだと思っていました。こんなになりふり構わず泣き叫ぶとは思ってもみませんでした……」
年上の、姉のように思っていたククイが、弱々しい声で囁くように言いながら、自分の胸に頭を預けてくれている。その様子が何ともいじらしく、愛しくて、ノジカは一度、赤子ごとククイを強く抱き締めた。
「油断は禁物だ。早く食事をして休もう。とにかく今は休まなければ、な」
「はい」
彼女の頬を、また、一筋の涙が伝っていく。
「ノジカ」
支度のため離れようとしたノジカの着物の胸を、ククイの華奢な手がつかむ。
「後生です。この子の傍についていてやってくれませんか。私に何かあった時はあなたが世話をしてやってくれませんか」
ノジカは苦笑してククイの手をつかんだ。
「縁起でもないことを言うな。もちろん世話は手伝う、ククイと一緒に子育てをしたいと思う。だが――」
「この子には父親がいないのです。私に何かあったらひとりになってしまうのです」
「そんなことはない、今回カンダチ族にも気にかけてくれている者があることは分かっただろう? それに――」
「戦になるかもしれないのです」
昨日の昼、浜で男たちに囲まれていた時のことを思い出した。
「私が、この子の父親の話を、したら。血を見るかもしれないのです」
慟哭、だったのかもしれない。
「聞いてください」
慌てて彼女をふたたび抱え起こした。
「実のところ、私にも分からないのです」
「子供の父親が誰か、か?」
「ええ。どちらなのか、分からないのですよ」
「どちら? と言うと――」
「アラクマの子なのか、オグマの子なのか。分からないのです」
ノジカは目を丸くした。
オグマ、というのは、自分と入れ替わりでマオキ族に送り込まれた男の名だ。アラクマと同じ顔をした、アラクマの双子の弟だという。
「あの二人は昔からそうで」
ククイはなおも涙をこぼしている。
「小さい頃から二人でひとつのものを奪い合って。おもちゃやおやつから始まって、友達や家畜や、とにかくいろんなものを奪い合って。いつしか――気がついたら、私を奪い合うようになっていて。でも私はどちらも選べなかった」
吐き出す声は苦しそうだ。
「二人の熱意に負けて、私は両方と通じました」
ようやく、カンダチ族に漂っているククイの周りの空気の正体を察した。
「二人に何度も私の気持ちを説明したのです。女たちが男を共有するようにあなたたちも私を共有すればいいと説得したのです。二人とも、一時は、私が手に入るのならそれでもいいと言ったのです、が――結局」
「子供ができたら、争い始めたのか」
「はい。生き残った方が子供の父親になると言って、喧嘩、と言うには激しい――カンダチ族全体を巻き込んで、皆を二つに分けてしまうような、――内乱、でした。あれは内乱だったのです」
「だからカンダチ族の皆が本当はどちらの子なのかを気にしているんだな」
彼女はうわ言のように続けた。
「私が、こちらにする、と言えば、選ばれなかった片方が、選ばれたもう片方を、殺してしまうのではないかと。あるいは逆に、選ばれた片方が、選ばれなかったもう片方の子かもしれないならいらないと言って、この子を殺してしまうのではないかと」
「そういうことだったのか……」
彼女は「分からないのです」と繰り返した。
「二人とも毎晩のように求めてくるものですから。何とか交互に――あるいは拒み切れずに一夜で両方の相手をしたこともありました。どんなに考えても、どちらの子なのか、見当がつかないのです」
押し黙ったノジカに、「あなたも呆れましたか」と問い掛ける。
「村の女たちは皆私を恐ろしい女だと言います。一人で族長候補の二人を独占して、どちらにも股を開く、強欲で軽薄な女だと。私はそうそしられても仕方がないと思って受け入れてきました。それでもアラクマとオグマが争わないでくれるのなら、私はずっとどちらも選ばずに三人で生きていこうと思ったのです」
ノジカは頷いた。
「私には理解できない。――けれど、ひとつだけ、言わせてくれ」
「はい」
「今のあなたがひとりで思い詰めるのは良くない。赤子も母上がそんなではつらいだろう。とにかく、何も考えずに休んでほしい。今のあなたがすべきことは、ただ、それだけだと思う」
ククイも頷いた。
ゆっくりククイの体を離した。けして落とさぬよう、静かに彼女の体を床に横たえさせた。
「大丈夫だ。ククイやアラクマやオグマがどうであっても私はその子の味方だ。その子のことだけは、どうか、心配しないでほしい」
「ありがとうございます」
ククイは目を閉じた。
ノジカが産屋を出たのは、ククイが産気づいてからすでに丸一日経過した翌日の昼のことだ。その間、手伝いの女たちを呼んだほかはほとんど外に出なかった。
だから、気がついていなかった。
河岸の大きな岩の上にアラクマが腰掛けていた。
彼はノジカを見てすぐに岩から下りた。ノジカに少し急いた足取りで歩み寄る。
「いつからそこにいる?」
訊ねると、彼は視線を河原の砂利に落とした。
「ククイが産気づいたと聞いて――だが別にずっといたわけじゃない、何度か飯や小便に立ったが――」
「ずっといたわけだな」
「……まあ、そうだな」
「用件は?」
アラクマは答えなかった。しばらくの間、河の波の音だけが響いていた。ノジカは途中で待つのに焦れ、少し厳しい声で「何とか言え」と投げ掛けるはめになった。
「一睡もしていない。早く帰って休みたい」
「俺もだ」
そう言って顔も上げないアラクマが、しおらしく、素直でいじらしく感じられた。せっかく険しい表情を作ったところだったが、ノジカはつい、笑ってしまった。
「心配しただろう」
何も言わなかったが、それはつまり肯定ということだ。
苦笑して「帰るぞ」と言う。
「私の帰る先と言ったら結局お前の館だからな。とにかく、睡眠を取りたい。……一緒に帰ろう」
そこまで言うと、ノジカはアラクマの返事を待たずに河上の族長の館を目指して歩き始めた。アラクマは溜息をつきながらも黙ってノジカの後ろをついてきた。
二人で河沿いを歩く。
日は昇ったが空気はまだ肌を裂くように冷たい。ひと晩じゅう眠れずにいた頭は疲れていて物事を深く考えられなかったが、目や耳や肌の感覚は風にあおられてか次第に冴えていった。全身で冬を感じる。
館が見えてきた頃になってから、アラクマが口を開いた。
「無事、だったんだな」
ノジカは頷いた。
「赤子もククイも元気だ。ククイは、直後は興奮していたのかずいぶんと泣いていたが、食事をとるとだんだん落ち着いてきた。今は寝ていると思う。そっとしておいて大丈夫だろう。また少ししたら女たちが様子を見に来てくれることになっているし、私も夜にもう一度行く」
「そうか……」
「ちなみに男の子だった」
「……そうか」
「女たちに聞かなかったか? ずっとあそこにいたなら、取り上げ婆役をしてくれた女たちが出入りするのも見ていただろう」
「みんなオグマの側の戦士たちの嫁だった。あいつらは俺には話し掛けないんだ」
横目でアラクマの顔を見る。その表情からは疲れが滲み出ていてノジカが多少とりなしたくらいでは取れそうにない。
「兄弟喧嘩もほどほどにしろということだな」
嫌味交じりに言ったつもりだったが、アラクマは素直に頷いていた。よほど堪えているらしい。だんだん哀れに思えてくる。
「お前はどこまで把握している?」
「お前ら双子がククイを奪い合って部族全体を巻き込む兄弟喧嘩をしたところまでは聞いた」
「おおかた全部だ」
驚くべきはその状況でも山の民に攻め込み一方的に勝利するカンダチ族の強さだ。だが、ノジカはそこには気づかなかったふりをした。実家のマオキ族が万全の状態ではないカンダチ族と全力で戦って負けたと認めるのはつらいのだ。
「オグマは、追い出した、ということか。私と交換というのは方便か」
一拍間を置いてから答えた。
「あいつがいるといつまで経っても同じことの繰り返しだ。争いの火種以外の何物にもならない」
「それで、族長の権限を使って追放したんだな」
「念のために言っておくが、俺は最終的にはオグマと正々堂々一対一で決闘した。戦士たちを集めて、戦士たちの目のあるところで真剣勝負をして、勝ったんだ。その場にいた全員が族長の座もククイも俺のものになったことを認めた。俺が独断専行であいつを弾き出したわけじゃない」
「ククイは納得した上での決闘だったのか?」
アラクマは今度こそ言葉を詰まらせた。
「ククイがどう思うかは考えなかったのか」
なおも答えない。黙ってノジカの後ろをついてきている。
オグマはノジカがカンダチ族へ来るのと同時にマオキ族へ行った。直接会話をしたことがない。カンダチの皆もオグマの話をしない。ノジカをアラクマの妻だと思っているので遠慮しているのだろう。実際に妻らしいことはしていなかったが、周りにとってはノジカはアラクマの側の人間であってオグマの話は禁忌らしい。
ノジカはオグマがどんな男か知らない。
まして男女の仲となればなおさら、第三者のノジカが口を挟むのは野暮というものだ。
だが――赤子を抱き締めてただただ震えていたククイの姿を思い出す。
ずっとひとりで気を張ってきたのだろう。我慢強い女性だ。けれど危うい。ノジカは彼女が本当は強いだけの女性ではないことを知ってしまった。
生まれたての赤子も抱いた。少し床に落とすだけで死んでしまいそうな生き物だった。
黙って見過ごすのもマオキの戦士としてのノジカの正義に反する。
守らなければならない。
ノジカは立ち止まった。
「――ククイが」
振り向き、アラクマと正面から向き合った。
「オグマの子だと言ったら、お前が赤子を殺してしまうかもしれない――そう言って泣いていた」
アラクマは眉間に皺を寄せた。唇を引き結ぶ。その唇の端が引きつる。肩が震える。感情が荒れ狂っているのだ。分かる。伝わってくる。それでも声を出さない。ただ、堪えている。彼はここでノジカに強い感情をぶつけることは戦士ならざる行ないだということを理解して耐え忍んでいるのだ。力の使いどころを分かっている。それは大勢の人間に認められるべき姿勢だとノジカは思う。オグマがどんな男かは知らないが、少なくともアラクマの方は族長に足る男だ。とはいえノジカのそんな評価など彼は欲しくないだろう。そんな甘い言葉はむしろ彼の戦士の誇りを傷つけるのではないか。そう思い、ノジカも唇を横に引き結んでアラクマの反応を待った。
「ククイがオグマの子だと言ったのか」
「いや、お前の子かもしれないとも言っている」
「そうか……お前にもどちらとは言わないか」
「ククイは分からないと言っている。分かっていたとしてもきっと一生言わないだろう。――どちらかだと言ってほしいんだな」
アラクマはノジカから視線を逸らした。
「自分の子ではないかもしれない子を育てるのは嫌か」
「そんなことはない」
その言葉は強い語調だったが、声がだんだん小さくなっていった。
「……いっそ、オグマではない、あかの他人の子だったら、もっと簡単に受け入れられただろうな。俺は、どうしても、オグマが許せない。あいつはいつも俺のものを横取りしようとする。ガキの頃からそうだった、俺のものを何でも欲しがって、俺がどんなに苦労して維持しているかも知らないで持っていく。平気な顔をして、最初から自分のものだったみたいな態度で」
それを聞いた途端、ノジカも胸がざわついた。その感覚はノジカにも覚えがある。
「ククイまで――もしかしたら子供までそうして奪っていくのかと思うと、俺は平静でいられない」
頭の中にテフの顔が浮かんだ。
美しく可愛い妹、誰からでも愛される娘、何の苦労もせずおとなにすり寄って甘えて何でも次から次へと手に入れていく、真っ白な肌に真っ黒な髪の女――真っ赤な唇で甘い声を撒き散らす。
テフはノジカより六つも下だ。ノジカはテフが何をしてもまだこどもだからと割り切ってきた。テフはまだ小さいから、まだ幼いから、分からなくても仕方がないのだ。テフがどれだけ可愛がられても、テフがどれだけ甘やかされても、ノジカよりこどもだから当然なのだ。
あんなものが同い年で、自分と同じ顔をして自分のすぐ隣にいたら、殺してやろうと思うかもしれない。
自分がいなくなった今、ナホの子供を産む役目はテフに回ったのではないだろうか。
自分より可愛い、自分より女らしくて愛嬌のあるテフが、ナホと番う。
ナホは今頃自分に甘えていたようにテフへすり寄っているのではないだろうか。
「でも」
アラクマはノジカよりずっとおとななのだ。
「ククイや子供を追い詰めているのが俺自身というのはきつい。それで、安心して子育てできない、と言うなら、どこか――どこかで、妥協を考えないとな」
今度はノジカの方がつらくなってきた。
「今は……、まだ少し、決心がつかないが――」
拳を、握り締める。
「その時が来たら、お前に仲立ちを頼むかもしれない。お前に……、マオキの村に帰ってもらって、オグマを連れ戻してもらうかもしれない」
ノジカは大きく頷いた。
「分かった。その時が来たら私が必ず間に入ろう」
そしてオグマではなくアラクマの味方をしようと、密かに誓った。
第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113
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