イヤサカ 第9章
気がついたら、いつもの拝殿の真ん中に正座していた。
ナホは目をまたたかせた。
自分はいつからここでこうしているのだろう。社に向かう途中で炎の波に包まれてから、記憶が、ない。炎の波に触れられたのだろうか。止められたのだろうか。分からない。
窓が閉め切られている。今が昼か夜かも分からない。
暗い部屋の中、いくつもの小さな炎が宙に浮いていて、ほのかに光り輝いている。
正面、祭壇の前にひとの姿があった。
雪のように真っ白な肌、紅をひいているこじんまりとした唇、夜の闇を凝縮したような瞳、座った状態で、しかも高く結い上げてもなお床に広がるほど長い漆黒の髪――
「母上」
彼女は穏やかに微笑んでいた。
ナホは戸惑った。母は去年病を得てその命のともし火を消した。ナホにすべてを託して、ナホの腕の中で息絶えたのだ。
炎が、揺れている。彼女の炎だろうか。彼女もまたナホを産んだことで神の力を失ったはずだ。
「ナホ」
声が、響く。ナホの、頭に、胸に、腹に響く。
「そなた、わらわが授けた炎を人間どもに対して使おうとしたな」
ナホは目を丸くした。なぜ彼女が知っているのだろう。誰にも何も言っていないはずだ。いつかオグマに使えると言われたきり他の誰かが触れることもなかった。
動揺して手をついたナホに対して、彼女が続ける。
「それはいつか人間どもがわらわに対してやめてほしいと言うておったことだ」
違う。
母ではない。
「わらわは人間どもがあまりに必死に懇願するものだから、哀れに思うてもう人間どもを焼かぬと約束してやったのだ。その約束を息子であるそなたが違えようとはな。可哀想な人間どもよ」
彼女は、この山の女神だ。自分が舞いながら対話していた相手だ。
ナホがしてきたことはきっとすべて知っているのだ。
「さよう。わらわはおのこの身でありながら毎朝毎夕舞うそなたの健気な姿を見ているのが好きであった。そう簡単に見捨ててしまうのは忍びない。最後に命乞いを聞いてやろうと思うてここに呼んだのだ」
ナホの祈りの声は彼女に届いていたのだ。
「答えよ」
声が、響く。
「そなた、わらわの力を人間どもに使おうとしたな。わらわが娘たちにやったその身を守るための力を」
「あ……、はい。そう、です」
しどろもどろながらも、ナホは正直に答えた。叱られる、と思ったが、嘘は見破られてしまう気がしたのだ。母はナホが嘘をつくことを嫌っていたことも思い出した。ナホの嘘はすぐ見破られた。母の前で嘘をつくことは無意味だ。
「そなたの母はその力を何に使えと申した」
「人を傷つけるためには使うなと言われていました。ごめんなさい」
彼女が言う。
「山のふもとを水攻めにしたな」
胸の奥が痛んだ。
水浸しになった川岸を思い出す。ただ水が流れるだけではなかった。大量の土砂と木々で見るも無残な様子になった。
ノジカが、マオキの村の惨状を見てもなお、カンダチの村よりいい、と言っていた。下流にはどんな地獄が広がっているのだろう。
「はい……、俺が、やっていい、と言いました」
「幾人を苦しめたと思うておる」
「すごくたくさんの人を……、ごめんなさい。こんなことになるとは思っていなくて……、今、俺もつらいです」
また、彼女は言った。
「おなごと通じたな」
心の臓が止まったかと思った。
「しかも、よりによってここで。この部屋はわらわがそなたたち一族の顔を見るための場であったというのに。わらわのためにしつらえられた祭壇の前でおなごを抱くとは何事ぞ」
「ごめんなさい。それはもう、本当に、俺が悪かったです……」
「わらわは我が子が人間とまぐわいするところなど見とうない。おぞましい。この痴れ者が」
「すみませんでした……本当にごめんなさい……」
ナホは首を垂れた。あまりの恥ずかしさと申し訳なさで顔を上げられなかった。耳が熱い。
空気の爆ぜる音がした。
新しい火がついた。
「愚かな。実に愚かな」
熱が迫りくる。
きっと炎が燃えている。
彼女の怒りがそこかしこで渦を巻いているのだ。
「悪い子にはお仕置きが必要だ」
ちり、と皮膚が焼けた。熱い。ただびとになった自分はその熱さを乗り越えることができない。火傷をする。
きっとこのまま焼き払われる。
だが仕方がないのかもしれない。彼女の怒りに触れた。自分もまた穢れなのかもしれない。
禁忌に触れたのだ。
受け入れよう、と思った。
それが彼女の望みなら――女王として、それを受け入れるのが自分のさだめなのだ。
ナホは目を閉じた。黙ってその瞬間が来るのを待った。
しばらくの間、静寂に包まれた。
ややして、彼女が声を上げて笑うのが聞こえてきた。
ナホは目を開けた。
どこも燃えてなどいなかった。
「意地悪を言うてすまなんだ」
上目遣いで、盗み見るように彼女の顔を見た。
「そなた、強くなろうとしたようだな」
穏やかな目で、微笑んでいた。
「何をもって強いというのかはよう分からぬが、上を目指すことはよいことぞ」
ほっと、胸を撫で下ろした。
彼女が立ち上がる。ナホの方へ三歩歩み寄ってくる。ナホに向かって腕を伸ばす。
右手でナホの左頬を、左手で右頬を包んだ。
「そなたは素直な良い子だな。可愛い子。そなたの顔を見ていたら怒る気が失せる」
膝立ちになり、目線を近づける。
「たまにはおのこを育てるのも面白いの。今まではおなごにこだわってきたが、もうその必要はないと心得た」
長い髪がナホの体に降ってくる。
「愛い子。わらわの可愛い可愛い一人息子」
頬を、撫でる。
「わらわが一番恐れていることは何だと思う?」
唐突な問いに、ナホはただまたたいた。すべてを統べ、すべてを滅ぼす、万物の母にしてもっとも強く清らかなものである彼女に恐れるものなどあるのだろうか。
頬を揺するかのように手を動かした。
「忘れられることだ」
彼女の向こう側で炎が揺れている。
「人間どもがわらわを忘れれば、わらわはこの世から消えてしまう」
夢か、幻か、美しく儚いこの空間で、彼女は生きている。
「忘れられぬよう、娘たちやそなたを遣わし、毎朝毎夕にわらわを思うように仕向けた。それでも叶わぬとなれば人間どもが一番恐れるやり方で人間どもをこらしめてきた。ありとあらゆる炎に、わらわの祈りを、願いを、望みを込めてやってきたつもりだ。だがこれだ」
彼女が目を伏せる。
「人間どもは相争ってばかりで、わらわがまことはどうしてほしいのか考えてくれぬな。わらわがいかほど心を砕いて山を人間どもの住める世界にしているかも考えずに、ようもやってくれるわ」
ナホは思わず笑ってしまった。
「貴女様は、また、そのような――こどものようなことをおっしゃって」
驚いたのか、彼女は目を見開いた。
「一言おっしゃっていただければ、俺がどうにかしましたのに。俺は毎朝毎夕貴女様のために舞っていたんですよ」
頬をさすりながら「生意気な」と言う。その声は優しく穏やかだ。
「そなた、未来永劫わらわを忘れぬと誓えるか」
ナホは即答した。
「はい」
「わらわのためにまた舞ってくれるか」
微笑んだ。
「お求めとあらば。もう、おとなになってしまいましたが。俺は、永遠に、あなたの息子です」
彼女も笑みを浮かべた。
そして、ナホを抱き締めた。
「そなたが舞い続ける限りわらわも人間どもを守ってやろう。とこしえにともに生きようぞ」
突然真っ暗になった。炎が消えたのだ。
辺りが闇に閉ざされる。
ナホの意識もまたそこで途切れた。
気がついたら、大勢の目がナホに向けられていた。
慌てて体を起こした。
自分は拝殿の階にいた。柱に寄り掛かって眠っていたらしい。
「ナホ様」
大勢の目が――マオキの長老会の人々の目が、ナホに向けられている。
「ナホ様や」
「ナホ様」
皺だらけの手が伸ばされる。ナホの手や膝を撫でる。
ナホはまたたいてから辺りを見回した。
辺り一面、緑、だった。柔らかく萌える木々の芽が目に優しい。色とりどりの小さな花がいくつも咲いている。白い蝶が舞っている。遠くには白く霞むように花を咲かせた木々があり、さらに遠く向こうの方には淡い色をした穏やかな海が見えた。
春だった。
突然抱きつかれた。
驚いて自分の胸の方を見下ろした。
ノジカだった。
ナホの見たことのないノジカだった。
彼女は震える腕でナホを抱き締めて声を上げて泣いていた。
ノジカの背を撫でる。先ほど会った時には怪我を負っていたはずだが、今は着物に穴が空いているだけで、傷のない、綺麗な白い背中の肌が覗いていた。
「どうしたんだ」
苦笑して問い掛けても、ノジカは何も答えなかった。
「ナホ様がのうなったんではないかと思ってな」
長老会の老婆が代わりに答える。
「ナホ様は身を挺して、民を救うために自らを犠牲にして山の神にお命を捧げてしまわれたのではないかと思うておったのだ」
ナホは笑った。
「こんなに泣かれるんじゃまだまだ死ねないな」
そう言ったナホの頭を老婆が撫でた。
ほっと、息を吐いた。
長老たちがひざまずき、拝み始める。
「ナホ様が山の民を救ってくださったのだ。ナホ様が山の怒りを鎮めてくださったのだ」
山の怒り、と聞いて、ふたたび辺りを見回した。
「炎の波や、炎の岩は?」
「すべてあっと言う間に消えてしまったのじゃ」
「消えた?」
「ナホ様が神様に話を通してくださったのではないのか」
女神の声が、こだまする。
――そなたが舞い続ける限りわらわも人間どもを守ってやろう。
ナホは、頷いた。
女神は、約束を守ってくれるのだ。
ナホも、彼女との約束を守らなければならない。
女王を、続けなければならない。
「みんな、俺、もう神の力はないけど――でもまだみんなのために頑張りたいんだ、女王でいることを許してくれないか」
翁たちが笑った。
「皆を守ったのはナホ様じゃ」
媼たちも笑った。
「女神の力を失ったとてナホ様が我ら山の民の頂に立つ者であることに変わりはないのだ」
胸に熱いものが込み上げてくる。視界がかすむ。一度飲み込んでから頷く。
「みんな、ありがとう」
自然と笑みを浮かべることができた。
「俺、道を間違えて、ひとを傷つけてばかりだったけど――」
そこで、自分で言いながら思い出した。
女神は、人間たちは彼女の意向を無視して人間同士で争ってばかりだと言っていた。
自分たちは争っていたのだ。
「そうだ、戦……! 戦はどうなっている?」
長老のうちの一人が答えた。
「戦士たちは皆丘に集まって震えておる。敵も味方もなくナホ様の奇跡におののいておるわ」
「よかった」
胸を撫で下ろした、次の時だ。
「しかし、はて、オグマだけ見掛けなかったのう」
ナホは顔をしかめた。
「そうじゃ、オグマはどうしたのじゃ」
「あの若造、こんなに引っ掻き回してくれたツケを払ってもらわねばならぬというに」
ようやく涙が引いてきたらしいノジカを押して離れさせつつ、溜息をつく。
オグマだけは、アラクマと二人きりの世界で生きているのだ。世界が変わっても二人は変われないのだ。
二人の世界を外側からこじ開けてやらなければなるまい。
「俺が止めてくる」
双子がどこにいるのかはすぐ分かった。
先ほど二人がいたところへ向かって山をくだっていくと、途中の川端に人だかりができていた。山の民、カンダチ族にかかわらず、すでに武装を解いた体格のいい男たちが、川の向こう側に集まって何かを眺めている。
金属音が断続的に響いている。示し合わせて鳴らしているかのように一定の拍を刻んでいる。
人だかりを掻き分け、ナホとノジカは輪の中心に入ろうとした。
案の定、アラクマとオグマが剣を握って打ち合いを続けていた。
片方が剣を振り下ろす。もう片方が刃で受ける。払い除ける。今度はもう片方が片方に向かって剣を薙ぐ。もう片方が受け流し、一歩下がる。片方が一歩踏み込む。
そんなことを繰り返している。
間合いを詰められない。二人は一定の距離を保って睨み合っていて、双方ともに決定的な一打を加えられない。
今に至るまでに攻撃が入ったことも何度かあったらしい。二人とも満身創痍だ。頬、肩、手首、腹、いろんなところから血を流している。ただし二人とも負傷の程度は同じのように見えた。どちらの方がより傷ついているとは断言できなかった。
血と泥にまみれて、互いを睨んで、ただただひたすら打ち合っている。
ここにはナホが恐れていたアラクマもナホが憧れていたオグマもいない。どちらがどちらかもよく分からない。どちらでもいい。どちらも一緒だ。
ナホは、ただ、二人を無様だと思った。この二人は何年この戦いを続けてきたのだろう。
大勢の人間が見守っている。二人は、それに、気がつかない。互いだけを見ている。周りが見えないのは戦士ならざることだ。今の二人にはもう戦術も戦略もないのだ。
周りの人々を見た。彼らも新しく近づいてきたナホとノジカに気づいたようで視線を返してくれた。だが皆二人には何も言わずすぐに双子を眺めるのに戻った。
ノジカが呟くように言った。
「どうしましょうか」
もうどれくらいの時間こうしているのだろう。二人とも傷ついている。足元はふらついている。疲労も溜まっているに違いない。しかも決着がつく気配はない。
「止めてあげますか」
ナホは悩んだ。本当はそのつもりで来たのだ。この二人が争いをやめない限り真の意味で戦が終わることはない。ましてアラクマは族長だ。彼が頷かない限りカンダチ族の撤兵は曖昧なままになる。
けれど――
「続けさせようか」
二人が意地だけで立っているのだと思うと、第三者が間に入るのは違う気がしてきた。
「どっちが勝ってもいいから。納得のいくまで、やらせてやろうか」
山の民の戦士も、カンダチの戦士も、二人を見守っている。誰も止めようとはしない。固唾を飲んで、黙って眺めている。
きっと皆同じ気持ちだ。
やらせてやりたいのだ。
ナホとノジカの周りの人々も、二人に同調したらしい。何人かが頷いた。
しかしその時だ。
今までにはなかった音が鳴り響いた。
アラクマとオグマを見た。
片方の剣が鍔元から折れていた。
二人の剣を見比べて、ナホははっとした。
アラクマが握っているのはカンダチ族の銅の剣で、オグマが握っているのはマオキ族の鉄の剣だ。
折れた剣の柄を握り目を丸くしたアラクマの腹を、オグマが踏むように蹴った。アラクマが水の中に倒れた。
オグマが剣を振り上げた。
あともう少しで決着がつく。
「――何の真似だ」
一瞬、時間が止まった。
アラクマとオグマの間に入り、アラクマを庇うように抱き締めた者があった。
女だった。カンダチ族の紋様の入った衣装を着、長い髪をひとつにまとめ上げた、華奢で可憐な美しい女だ。彼女はアラクマをしっかりと抱き締めた状態でオグマを見上げていた。
ノジカが「ククイ」と呟いた。知り合いらしい。
「なんでなんだ」
剣を振り上げたまま、オグマが吠えた。
「なんでお前が邪魔するんだ!」
女はひるまなかった。そのままの体勢で、大きな瞳でオグマを見つめていた。
「おやめなさい」
形の良い唇から流れる声は落ち着いている。オグマは彼女ごとアラクマを斬りそうな剣幕だというのに、彼女は微動だにしない。
「もう終わりになさい」
オグマが「やめない」と叫ぶ。
「お前アラクマを庇うのか」
声が震えている。
「やっぱりアラクマを選ぶのか。俺じゃなくて、アラクマを!」
女はゆっくり首を横に振った。
「あなたのためです、オグマ」
「どういう意味だ」
「私はあなたの名誉が傷つくことを恐れています。こんな衆人の場で、よその部族から得た武器で、実の兄を殺そうとしている。私はあなたが一生背負うことになるであろう罪を恐れているのです」
オグマは剣を下ろした。けれどしまうことはなかった。しっかりと握り締めたままだ。唇の端も引きつっている。怒りが荒れ狂っている。
「その罪のために、あなたが私のもとへ帰ってこれなくなることを、私はとても、恐れているのです」
彼女はそれでも冷静な声で語り続けた。
「もう、充分でしょう。アラクマは本気になったあなたがどれほど恐ろしいか学んだことでしょう」
「嫌だ」
そう訴える声は母親に甘える幼子のようだ。
「そんなことはない。そいつは俺のことを馬鹿にしてる」
彼は吐き出した。
「いつもそうだ! みんな言うだろ!? オグマはアラクマよりバカだ、オグマはアラクマほどしっかりしてない、オグマはアラクマよりちゃらちゃらしていてだらしない! ああそうだみんなの言うとおりだ、俺はアラクマみたいにちゃんとやれない、みんなの顔色を窺ってへらへらしてばっかりだ。俺はそういう生活にはもううんざりなんだ!」
その血を吐くような叫びは悲痛だ。離れたところで第三者として聞いているこちらまで胸が締めつけられる。
「しょうがねえだろできないんだからよ! みんなの言うとおりだ、俺はずっといかにうまくやるかを考えてた、正攻法じゃ絶対アラクマに敵わないと分かってた。何だってアラクマのがよくできる。俺はクソくだらねえ努力だけ重ねて卑怯な男になった」
剣から片手を離した。
「だからお前も俺のものにならなかった」
その手で自分の目元を押さえた。
「お前だってアラクマの方が好きなんだろ……」
そこで口を開いたのはアラクマだ。
「お前、そんなこと考えてたのか」
その声には純粋に驚きが表れているように聞こえた。
「俺は、要領が良くて器用で誰とでもうまくやれるお前の方が、みんなに好かれてるんだと思ってた」
オグマがふたたび顔を見せた。今にも泣き出しそうな目でアラクマを見下ろした。
「クソ真面目なことしか取り柄のない不器用な俺に誰がついてくるんだと思ってた。みんなお前が族長の方が楽しくやれると思ってるんだとばっかり思ってたし――」
アラクマが女を見る。
「ククイだって、毎日毎日、オグマオグマオグマオグマ。ククイは俺よりオグマが可愛いんだと思ってた」
女が声を上げて笑った。
「オグマ」
右腕でアラクマを抱いたまま、左腕をオグマに伸ばす。
「アラクマと同じことができるようになる必要はありませんよ。あなたはあなたでいいのです。私は一度だって同じことを望んだつもりはありませんよ」
そして、微笑む。
「おいでなさい。私はあなたたちが二人ともいとおしいのです。二人揃って、同じ場所でてんでばらばらのことをして生きるあなたたちのその違いが可愛いと思って、両方とも大事にしていこうと思ったのですよ」
オグマの手から、剣が離れた。川の中に落ちて、岩にぶつかって明るい音を立てた。
オグマが膝をついた。
女の胸にすがりついた。
彼女は両方の腕にそれぞれを抱いたまま、満足げに頷いた。
そして、周りに突っ立ってその光景を見ていた戦士たちの方を見た。
「お騒がせしました。双子がとんでもないご迷惑をおかけしたこと、私が双子に代わって謝罪いたします。この償いは、一生かけてでもいたしますので」
ナホは、大きく、息を吐いた。きっと今自分の顔には優しい表情が浮かんでいることだろう。
戦は、終わりだ。
マオキの村に戻ると、崩れたはずの家屋が昨日までと何ら変わらぬ様子で並んでいた。女神はその怒りをもって破壊したものを元通りにしてくれたのだ。炎の波や炎の岩の痕跡もどこにもなく、こどもたちはいつもどおり元気に野原を駆けていた。
村の中央、寄り合い所になっている大宮に、各部族の長と供回り二、三名ずつ、合計三十名ほどの人々が集まっている。高い天井に広い空間の建物だが、屈強な戦士の男ばかりが詰めたためか窓を開けても熱気がこもった。
手当てを終えたアラクマが、部屋の中央に歩み出てきた。皆の視線を一身に浴びながらも、ゆっくりと腰を下ろす。その堂々とした立ち振る舞いはいかにも海の民の王といった風格で、とても少し前まで双子の弟に手間取っていた男の雰囲気ではなかった。ナホが恐れていたのはこの男だ。
アラクマの斜め前に、同じような態度でオグマが腰を下ろした。ナホのいる方からすると二人横に並んでいるように見えた。姿かたちがまるで一緒だ。喋り出せば性格は正反対なので分かるが、見た目は顔の刺青の他に区別をつけるものがない。その刺青も左右対称になっているので、気を抜いたらどちらがどちらか分からなくなりそうだ。
アラクマの隣、オグマの反対側に、ククイと名乗るあの女が座った。美しくたおやかな女性だ。けれどナホはカンダチ族で一番彼女が恐ろしいと思った。川での一件以来ずっと黙ってアラクマの一歩後ろをついてくる良妻ぶりを見せていたが、山の民は誰もが彼女の存在感に圧倒されている。自分などよりはるかに彼女の方が女王の名を冠するにふさわしい。
そんなククイに、ノジカが膝立ちで近づいた。
「ククイまでここにいて大丈夫か? 坊は?」
ククイがノジカに向かって微笑む。
「村の女たちが見てくれています。助かりますね、やはり子育ては一人でするものではありませんね」
子供がいるらしいことを知り、ナホは寒気を感じて自分の腕をさすった。誰の子なのかを考えると、なぜ双子があんなに互いを敵視しているのかが想像できるのだ。
アラクマの後ろに、カンダチの戦士を代表して二人の男が座った。カンダチ族はこれで全部だ。
「そちらの代表は」
アラクマが言った。
「マオキ族のシシヒコ殿でよろしいのか?」
それまでナホの横に控えていたシシヒコが立ち上がり、アラクマの前に歩み出た。腰を落ち着ける。
「お相手つかまつる」
「申し分ないが――」
アラクマの目が、ぐるりと部屋の中を見回す。
「女王はいらっしゃらないのか。山の民の頂点に立つのは女王だとお聞きしていた。前回の戦のあと一度も姿をお見掛けしていないが、異民族とは話をなさらないものか」
ナホは硬直した。
なぜか、部屋じゅうの男たちの視線が自分に集中している気がする。山の民の長たち、戦士たちが、ナホを見つめている気がする。なぜだろう。今の自分はマオキの戦士としての衣装を身にまとっている。髪もひとつに結い上げているだけで髪飾りはひとつもさしていない。当然化粧もしていない。どこからどう見ても一介のマオキの青年のはずだ。
「ナホ様」
ナホの斜め後ろに座っていた青年が、口を開いた。
何も考えずに振り向いてしまった。
後ろの青年と目が合ってから、自分の名が女王と同じであることが知れているのに気づいた。
その青年だけではなかった。ナホの周囲にいる山の民の長たちすべてがナホを見つめていた。
「我々は分かっているのですぞ」
胸の奥が冷える。
「我らが女王――いえ、王よ」
皆が一斉に首を垂れる。
「前にお出になれ。御身こそ我々の代表者、支配者にして統率者」
動揺して立ち上がった。思わず「どういうことだ」と声を荒げた。
「バレてしまいましたね」
そう言ったのはシシヒコだ。
「ナホ様が山の民のために一生懸命でいらっしゃることを、みんなみんな、知っていたんですよ」
皆を見回した。
誰もがナホを前にしてひれ伏していた。
「存じ上げておりました」
「それこそ戦になる前から。祭のたびに、年々お育ちになられるお姿を拝見して、このお方は、まことはおのこなのではないかと」
「ですが、誰も」
「誰もが」
「女王を求めていた」
ナホは一瞬呼吸を止めた。
「女神を欲するがあまりにナホ様を犠牲にしてきたことは、誰もが承知のことでございました」
「俺でいいのか? もう神の力も使えない。今回も皆を戦に導いてしまった」
「それでも」
彼らは答えた。
「御身についていくことを選んだのは、我々です」
ナホの声は届いていたのだ。
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。凍てついた心がときほぐされていく。
「罪穢れを分かち合いましょうぞ」
アラクマが「決まりだな」と言った。
「座られよ、山の民の王」
振り向くと、カンダチ族の皆が微笑んでいた。
見守られている。
「山と海の未来を話し合うためにこれ以上のお相手はない。この上ない待遇、恐悦至極に存じまする」
アラクマが頭を下げた。それにならってオグマとククイも首を垂れた。後ろに控えている戦士たちも深く礼をした。
「俺でいいのか」
ナホは、震える足で、シシヒコの一歩前に出た。
「ナホ様が、いいのです」
その言葉を受け止めて、頷いた。
そして、皆の前に座った。
「女王ナホは、どこにもいない」
自分は、男の王として、ここにいるのだ。
「みんなのつくった、幻だった」
全員が、女王ではなく、ナホを、見ている。
「女王の幻は炎の波に呑まれて消えた」
腰に差していた短刀を取った。
ナホの急な行動に驚いたのかノジカを含む何人かが立ち上がろうとした。だが、ナホは気にせず自分の髪をつかんだ。
長く美しい黒髪は母と同じで、舞を舞う時に揺れる女王の象徴だった。
結っている根元に短刀を突きつけた。力を込めて引いた。
予想以上に太く強くなかなか進まなかったが――
「これから先は、俺を」
力強く、断ち切った。
女王が、消えた。
髪の束を、床の上に、置いた。短くなった髪が頬にはらはらとかかった。
「よろしく頼む」
頭が軽くなった。気持ちも軽くなった。
「我らが王よ」
皆が「栄えあれ」「幸いあれ」と言祝ぐ。
「弥栄!」
ここに、山の民の新しい王が誕生したのだ。
アラクマが顔を上げる。
「山の民の王よ」
そして言う。
「我々は負けを認める」
戦は終わったのだ。
「だが、これからも品々は頂戴したい。カンダチ族がまだ弱く小さいからだ。山からの施しがなければ食っていけない。先の戦のあとに約しただけの米と山の幸を融通してもらわなければカンダチ族は近いうちに滅びる」
「分かった」
ナホは頷いた。
「山は豊かだ。カンダチ族を受け入れられる。ともに生きよう。これからは山がカンダチ族を助ける。山がカンダチ族にものを贈る時、それは山の誉を傷つけるものではなくむしろ増すものであることを毎度確認してくれ」
念のためにシシヒコの方を見た。シシヒコが「そうですね」と微笑んだ。
「では、米を送る代わりに、塩を。山の民が持ち回りで海に出掛けて苦労していた塩作りを、これからはカンダチ族に一任したい。それから、時々、海の幸を。貝や海苔を送っていただこうか」
カンダチ族の一同が、ふたたび深く首を垂れた。
「承知した」
誰かが「成立だ」と叫んだ。
「とこしえに」
「とこしえに!」
そこで、アラクマが「それから」と続けた。
「ノジカを」
視線がノジカに集中した。
「ノジカをお返しする」
ノジカはカンダチ族の一同とナホやシシヒコとの間に挟まれる形でおとなしく座っていた。驚いたらしく目を丸くしていた。
「もう人質は必要ない」
ナホは知らず笑みを浮かべた。
「まして王にとって大事なひとなんだろう。未来の后を留め置くなどだいそれたことをするつもりはない」
山の民の間から笑いが起こった。ナホは頬を赤くしてうつむいた。そう言えば、いつだったか、誰かがノジカを女王にとって必要な人間だと言っていた気がする。そこまで知れ渡っていたのだ。
「代わりを用意していただくこともない。カンダチ族に人をお貸しくださるとなればありがたいが、正直なところ養うだけの余裕がない」
「そうか、では――」
ところが、だった。
「お断りする」
予想外の言葉に、ナホは思わず口を開けてしまった。
ノジカは、真剣な顔で、まっすぐ正面を向いていた。
「私は、帰らない」
何を言っているのか、分からなかった。
「ノジカ……?」
ククイがノジカの顔を覗き込むように見つめた。ノジカは彼女の方を見て頷いた。
「アラクマやククイと一緒に海へ帰る」
言葉が見つからないナホに代わってアラクマが「どうしてだ」と問い掛ける。
「マオキの村に帰りたいんじゃなかったのか」
「帰りたい。でも、だからこそ。マオキ族のことを思えばこそ」
ノジカは優しい笑みを浮かべた。
「今回、山の民はカンダチの村を破壊してしまった」
女神がもとに戻したのは地震や炎の波の影響下の部分だけだった。山裾は相変わらず水浸しで、土砂と木片で汚れていた。河口の様子はまだ見ていないが、おそらく倒壊したまま放置されているのだろう。
「大勢のひとが家を失って困っている。誰かが償わなければならない。私が行く」
彼女は宣言した。
「カンダチの村を立て直す。片づけたり、他の者が片づけている間にこどもたちを見たりする。カンダチの村が落ち着くまで、私は帰らない」
そして、ナホに向かって苦笑した。
「そんな顔はなさらないでくださいませ。永遠に帰らないとは申しておりません。ですが、ナホ様がなさったことです。ナホ様の不始末はノジカが片づけます。ナホ様も我慢してくださいませ」
それが、自分に与えられた、罰なのだ。
「……分かった」
ナホは、涙ごと、ノジカの決意を呑み込んだ。
「カンダチ族が、落ち着くまで。カンダチ族と山の民の間に、まことの友情が成るまで。ノジカは、カンダチ族に」
ノジカが深く、頭を下げた。
「ありがとうございます」
能天気な声が割って入ってきた。
「じゃあ、俺も山に残るか」
声の主はオグマだ。
彼は陽気にも感じられる笑顔で、頭の後ろで両手の指を組んでいた。
「川を片づけなきゃな。言い出しっぺは俺だしな。そこまでは、責任もってやらせていただきます」
ククイが「分かりました」と頷いた。
「オグマもおとなになりましたね」
山の民の一同がまた声を上げて笑った。
「ノジカを返しに来た時に、今度こそあなたを連れて帰ります。それまでいい子で、山の民の皆さんの言うことをよく聞いて過ごすのですよ」
オグマが「はーい」と答えた。
アラクマが咳払いをする。
「あと、最後に」
「何か?」
「テフに良縁を世話してやってほしい」
異民族の王にまで言われてしまって、テフの兄であるシシヒコは「すみませんでした」とうなだれた。
「では、これにて」
アラクマがそう言って立ち上がる。
ナホも一緒に立ち上がった。そしてアラクマに向かって手を伸ばした。
「また、今度は夏至祭りの日に、山に遊びに来てくれ。俺はきっとまた舞を舞う、その後はできる限りもてなさせていただく」
アラクマがその手を握り締めた。
「今度は、宴の席で」
* * *
次の年の春のことだ。
海から山に、花嫁がやって来た。
長く伸びた髪をまとめて翡翠のついた髪飾りをさし、色とりどりの布に白い渦の刺繍が入った衣装を着て、貝殻の首飾りをつけたノジカが、船に乗せられ、大勢の男女に見送られて山に戻ってきた。
山も海へと、花婿を送り出した。
髪をきつくひとつに縛って油で撫でつけ、炎の波に似た黒と赤の紋様の波模様を染め抜いている絹の衣装を着て、鉄の大太刀をはき、紅玉の首飾りをつけたオグマを、山の民みんなで見守って船に送り届けた。
オグマとノジカが手を叩いた。
「交代だ」
春が、来た。
とこしえの、春が来た。
第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
第6章:https://note.com/hizaki2820/n/nf97d356d1791
第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113