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イヤサカ 第5章

 オグマは右手を大きく振りかぶった。
 左斜め上から殴られる。
 察知したナホはとっさに頭を右に動かした。
 途端もう片方の手で襟首をつかまれた。
 左手が空いていたのだ。ナホがオグマの左側に跳び込んでくるのを待っていたのだ。
 オグマの方へ強く引かれた。
 同時に足を払われた。体の均衡を保てない。宙に浮く。そして落下する嫌な感じを覚える。
 衝撃を最小限に抑える――体表のできる限り広い範囲で受け止める、頭を落とさないようにする――地につく覚悟を決める。最近学習したことだ。
 あえて背中から地面に落ちた。地面を叩きながら転がった。
「ナホ様!」
 シシヒコが駆け寄ってきた。ナホを抱え起こそうとする。相変わらず過保護だ。ナホは自ら上半身を起こして「平気だ」と主張した。
「いい感じ、いい感じ」
 シシヒコは不安げに眉尻を垂れているが、オグマは機嫌が良さそうだ。
「体をどう動かせばいいのかは分かってるんだな。反応も速い。これなら戦場にほっぽり出しても死にはしないな」
 腕についた土や木の葉の破片を払いつつ、ナホは頷いた。
 評価されることが嬉しくて口元がにやける。けれど口にはしない。照れ臭いのだ。
 オグマに褒められることがとても特別なことのように感じる。
 ナホは小さい頃から母親やマオキの長老会に褒めちぎられて生きてきた。ナホに否定的な評価を下した人間はいまだかつて一人もいない。だがナホはそう扱ってもらえるのも女王の一人息子だからだと理解していた。したがってよそから来たオグマの言葉こそ誇張や脚色のないありのままのナホに直結しているように思える。
 実力を評価されている。
 まだ大して何もできていないが――毎日オグマに転がされてばかりだが、女王の仮面を剥ぎ取ったら何もできないというわけではない。
「いいか、ナホ」
 オグマがしゃがみ込んで、ナホと目線を合わせながら言う。
「お前は体の動かし方は分かってる。足りないのは二つだけ、重さと、人に怪我をさせる覚悟だ」
 また、大きく頷く。
「重さは諦めろ、逆に身軽なのが長所だと考えられるし、知恵と勢いで何とかなる場合もある、今のお前はすごい早さで学習してるからそのうちどうにかできるだろ」
 さらにもうひとつ頷く。
「あとは、ためらわずに俺をぶん殴れるようになるかどうかだ」
 今度は、ナホはうつむいた。
「これは、お前の気持ちひとつだ」
 二人の傍らに立ったまま、シシヒコが口を開く。
「別にいいじゃないか、ナホ様は女王なんだから、そんな、前線に立つわけじゃあるまいし」
 万が一前線に立つことになったらどうするのか、とか、女王ではなくナホが戦いたいのだ、とか――ナホが口を開く前にオグマが言った。
「ナホのやる気を殺ぐようなことを言うな」
 オグマは分かってくれているのだ。ナホが本気で強くなりたいことを――戦える男になりたいと思っていることを理解して、本気でぶつかって指導してくれているのだ。
 オグマについていけば強い男になれる。
「とりあえず休憩な。やみくもに取っ組み合っても疲れるだけだぞ」
「はーい」
 オグマが立ち上がってシシヒコと向き合った。
「で、そっちの塩梅はどうだ」
 シシヒコが微笑んだ。
「何とかなりそうだよ」
 ナホとオグマが組み手をしている間、彼は山の民の各部族の長を集めて寄り合いを開いていた。主題はオグマの情報の共有だ。オグマをマオキ族に受け入れ、対カンダチ族体制の最重要人物として扱うことを認めさせる寄り合いだった。
「正直に腹を割って話した。やっぱりどの村も今の山の民の古い雰囲気では外来の民族に対応できないという不安はあるみたいだ。新しい民族の人間を入れることで一新を図りたい、で一致した」
 ナホも胸を撫で下ろした。同時にシシヒコを見直した。普段は気弱なシシヒコに厳しいことを言ってしまいがちだが、温厚で人の話をよく聞くシシヒコだからこそ他の部族の連中も信頼して本音を打ち明けるのだ。強権的で上から命令していた代々のマオキの族長であればもっと強い反発があったかもしれない。伝え聞いたところによると、ホカゲの女王がマオキ族と他部族とのそういう諍いを収めてマオキ族に従わせてきたらしい。ナホがそういう仕事をしなくても済むのはイヌヒコとシシヒコの性格ゆえだ。
「でも、どういう形で落ち着けるか、までは結論が出なかったな。とりあえず一回解散して、また来月オグマも交えて話し合おうということになった」
「お前らほんと気が長いな。来月まで我慢する自信がない」
「まあ、そう言わないで。もう何世代も今の体制でやってきていたんだ、そんな、一朝一夕で生まえ変わるみたいなことは難しいよ。みんな帰って自分のところの長老たちと話したいと言っていた、時間をあげてほしい」
「しょうがねーな、そこは俺も妥協してやらないとな。俺が欲しいのはお前らの団結であって分裂は真逆だ」
 ふと外に目をやる。
 冬になり裸になった木々の幹が目に入った。獣が角か爪を引っ掛けたらしく、傷がついて皮が剥がれていた。
 オグマが言う、ひとを傷つける、というのは、どういうことだろう。あの夜アラクマを殺そうとしたが、仮にアラクマより優位に立てたとして、本当に剣を突き立てることはできただろうか。
 木の幹の一点に意識を集中する。黒い穴が空き、細く煙が立つ。木の皮が焼けたのだ。
 目線を斜めに動かす。黒い穴もナホの目線に合わせて斜めに移動する。木の幹に大きな傷がつく。
 母の声が聞こえる。
 ――この力は人を守るためにあるもの。火の山の神がお怒りになり、炎が荒ぶる時にこそ、この力を使うのだ。穢れを祓いこそすれ、穢れが増すようなことをしてはならぬぞ。
 煙が上がる。傷口に宿った炎が赤く輝く。爆ぜる。
 人間の体もこんなふうに焼けるのだろうか。
 穢れとは、何だろう。何から何を祓えばいいのだろう、何から何を守ればいいのだろう。
「――ナホ」
 不意に名前を呼ばれた。慌てて火を消して振り向いた。
 オグマが不思議なものを見る目でナホを見つめていた。
「お前そんなこともできるのか」
「ああ、まあ。かまどに火種をつけたりとか、料理の前にやると女たちにありがたがられる」
「地味だな」
 笑われてむっとした。ナホからしたら自分だけにできる大仕事なのだ。
「こどもの頃はうまく扱えなくて、何度かノジカやシシヒコに火傷をさせてしまって。母上にあれこれ訊きながら何度も何度も練習して、何年もかけて、この二、三年でようやくこうやって火を小さくしたり動かしたりできるようになったんだ」
「はあん、お前は昔からそういう努力はしてきたんだな。俺なんかいかにずるして喧嘩に勝つかばっかり考えて生きてきたのにな」
 調子に乗ったナホは「こういうこともできる」と言いながら先ほどの木を睨んだ。
 突如、ナホの目線の先に炎の玉が出現した。
 炎の玉は宙を突き進んだ。そして木の枝の根元に勢いよく突き刺さった。
 枝が焼き切れた。ナホの手首ほどの太さのある枝だったが、あっと言う間に幹から離れて大地へ落ちた。
 枝が落ちた瞬間、何か別の大きなものも同時に地面へ落ちた音がした。
 目線を下に落とすと、木陰でテフが尻餅をついていた。
「何をやっているんだお前は」
 テフが震える声で答える。
「兄さまとナホさまが鍛錬に行ったと聞いて、テフも交ぜてほしくて……」
「テフも武術をやりたいのか?」
「見てるだけです、テフは筋肉がつくのは嫌なのでいいんですけど」
「じゃあ来るな、遊びでやってるんじゃないんだ」
 上目遣いでナホを睨む。
「姉さまはよく兄さまや戦士のみんなと一緒に何かしてたじゃないですか」
「ノジカも戦士として体を鍛えていたんだ、お前みたいに遊んでいたわけじゃない」
「テフだって遊んでないです、応援です」
「そういう屁理屈ばっかり言って!」
 シシヒコは「そうだテフ、ナホ様の邪魔をするな」とナホを援護したが、オグマは「いいじゃねえか」と言った。
「そんな冷たい言い方しなくても。見てるだけなら別に害はない」
 オグマの言葉を聞いて、テフがその愛らしい顔で笑みをつくった。
「そうですよう、テフが見守ってあげます、いいでしょ」
「いや、お前、いると話し掛けてくるだろう。邪魔」
 うつむき、桃色の唇をすぼめて、黒い瞳を潤ませる。可愛いからこそ腹が立つ。
 テフの場合は本気で泣こうと思って泣いているわけではない。こうやって泣けば許してもらえるのを知っている。
 彼女はとにかく表情がころころとよく変わる。笑っていたと思えば泣き出し、泣いていたと思えば笑い出す。彼女の表情の変化は信用できない。彼女にとっては武器なのだ。
 ナホは苛立ちのあまりつい吐き捨ててしまった。
「お前はすぐそうやって泣くからうっとうしいんだ」
 案の定、テフは唇を引き結んでナホを睨んできた。
「姉さまにはそういうことおっしゃらないのに」
「ノジカはお前みたいに面倒臭くなかった」
 シシヒコが溜息をついた。
「テフは帰って料理の手伝いでもしていなさい」
 兄にまで言われて、観念したらしい。納得したわけではないようで、ナホやシシヒコを睨みつけながらではあったが、「はあい」と言いながら立ち上がり、村の方へ歩き出した。
「そんな、邪険にしなくてもいいだろ」
 オグマが言う。彼はなんだかんだ言って女こどもには甘い。だがナホはテフがこの世に生まれ出でてから十三年間苦労してきた。ナホにとってのテフは族長一族や長老会の愛を奪い合う敵なのだ。
「あいつ、甘やかすとつけ上がる」
「そうなんですけど」
 シシヒコが肯定しつつも言った。
「ノジカがいなくて寂しいんですよ。構ってくれる人が減って、新しい保護者を探しているんです」
「じゃあなおのこと俺には寄ってこないでほしい」
「まあまあ、適当にあしらっておけば大丈夫ですから」

 雪の降り積もる山中、泉の表面から湯気がゆらゆらと立ち昇っている。
 ナホは湯の温度を確かめようと慎重に手を差し入れていた。
 隣のオグマは何にも考えていないらしい。帯を解き、袖を抜き、あっと言う間に全裸になってしまった。
 着物をその辺に放り出して、勢いよく湯の中に跳び込む。しゃがみ込んでいたナホは全身に湯のしぶきを浴びるはめになる。
「サイコー」
 両手で湯をすくい上げて顔を洗う。
「お前、温泉好きだな」
 言いつつ立ち上がった。
 オグマが振り向き、ナホに腕を伸ばした。
「お前も入れ」
 ナホの帯の結び目をつかむ。ナホの反応を待たずにほどき始める。ナホは慌てて「何するんだよ」と叫んでオグマの手首をつかんだがナホの力ではオグマを止められない。あれよあれよといううちに着物を引き剥がされ、ナホの雪のように白い肌が空気に晒された。
 ナホはひどい羞恥を感じた。オグマは厚い胸に盛り上がった肩と腕のたくましい体をしている。日に焼けた皮膚も強そうだ。対するナホは華奢で腕は細い。薄い皮膚は特別弱いわけではないが簡単に朱に染まった。
 しかしナホがものを言う前にオグマはナホの腕をつかみ直した。強引に引いた。
 体が宙に浮く。湯に叩きつけられる。
 一瞬、湯の底に沈んだ。
 全身を温かな湯に包み込まれる。浮遊感が心地良い。
 すぐに浮かび上がったので特に息苦しくもない。
 気持ちいい。
 湯の中に二本の足で立ち、顔の水滴を手の甲で拭ってから、ナホは「ひどい」と言いながら笑った。
「お前なあ、山には女王にこんなことをする奴はいないぞ」
「なーにが女王だ、俺からしたら弟みたいなもんだ」
 オグマが湯の中に腰を下ろす。胸から上だけが湯の外に出る。気持ちの良さそうな顔で大きく息を吐く。
 オグマに歩み寄って、すぐ傍にナホも腰を下ろした。
 自分の腕の隣にあるオグマの腕を見る。彫られた刺青の下に血管が通っている。強い戦士の男の腕だ。うらやましかった。
「お前、ひと回り大きくなったな」
 再度顔を洗いつつ、オグマが言う。
「初めて会った時はもっとひょろひょろだったのに、だんだん筋張ってきた気がする」
 湯から手を出して眺める。ナホ自身は実感が湧かない。だが、オグマの目から見てそうなら、そうなのかもしれない。胸の奥が温かくなってくる。
「重くなったんじゃねえのか」
「お前に体重が分かるようなことをされたおぼえは一度もないけど」
 嬉しくてにやける口元を押さえつつ呟いた。
「背もちょっと伸びたし、春になる頃にはもっと体格変わってるかもな」
 オグマの手が伸びた。ナホの頭を押さえるように撫でた。ナホは目を細めたが喜んでいることを悟られたくなくて唇を引き結んだ。
 春になる頃にはもっと男らしくなっているだろうか。オグマやシシヒコほどにはならなくても、ノジカよりは強い男になっているだろうか。オグマの言うとおり最近背も少し伸びている。ノジカとの差はついただろうか。
 早く時が過ぎればいいのにと思う。もっと成長したい。今日より明日、明日より明後日の自分が大きくなっていることをナホは確信している。早くおとなになりたい。
「まずいな。今の俺、隙だらけだ」
 オグマが背後の岩にもたれた。
「マオキの村に来てから毎日山の幸食ってナホと遊んで温泉入ってる。俺はいったい何をしに来たんだ」
 ナホは今度こそ声を上げて笑った。それだけ神の火の山が豊かで穏やかなところだということだ。ナホの生まれ育った山がいいところなのだ。蛮勇を誇るカンダチの戦士を骨抜きにする。少し照れ臭いが、誇らしい。
「ずっといてもいいんだぞ」
 言ってから、顔の下半分を湯に沈めた。唇の端から漏れた空気が湯の面に泡をつくった。
 しかし――
「ごめんな」
 オグマがそう言うであろうことを、ナホは分かっていた。
 オグマはいつも遠くを見ている。遠く――海の方を見ている。山はオグマにとって一時的な滞在場所でしかない。
 ナホはいつしかそれを寂しく思うようになっていた。オグマがこのままマオキ族の一員になれば楽しいのにと考えるようになっていた。だがけして口には出さなかった。
 オグマの決意は堅い。その心意気に背くことをするのは戦士の道義ではない。
 ナホもオグマのような戦士になりたい。
「本当は、こんなことをしている場合じゃあない」
 オグマの大きな手が、ナホの濡れた長い黒髪を撫でる。髪の裾がゆらゆらとたゆたう。
「カンダチ族は生まれたての部族だ。故郷の浜を発って五年、ようやく戦士たちが所帯をもって子供が増え始めたところだ。本当は一人でも多くの人手があった方がいいはずだ」
 その声は低く力強い。彼の気持ちが何物にも揺るがされない証のように聞こえる。
「俺は流浪の旅生活の間も楽しかったけどな。カンダチ族も、みんながみんな、冒険を楽しめるわけじゃあない。そろそろ女が落ち着いて子供を育てられる環境を整えてやりたい。根を下ろしたい。マオキの村みたいに、でかくて歴史のある村にしたい」
 ナホは一回湯の中に顔を全部つけた。少ししてから顔を上げ、オグマの方を向いた。オグマもすぐナホの視線に気づいてナホの顔を見た。
 今だ。ずっと胸で温めていたことを今こそ明かすべきだ。
「――女王の夫に、ならないか?」
 オグマが目をまたたかせる。
「そうしたら山の民がみんなお前の味方になる」
 ナホの言葉に「冗談だろ」と首を横に振った。
「清浄な女王に異民族の手が触れるのは穢れだってじじばばが言ってるじゃねえか」
「穢れなんて俺が全部焼き払えばいい」
「マオキ族はそういうむちゃくちゃが許される空気じゃない」
「マオキ族だけが山の民というわけじゃない、絶対なのはホカゲの女王であってマオキ族じゃないんだ、マオキ族が許すかどうかは女王にとっては致命的なくらい重大なことじゃあないはずなんだ。女王はマオキ族を含んだ山のふもとに住むすべての部族の上に立っている」
「まあ……理屈の上ではそうかもしれねえけど……」
「その女王の伴侶として、山の民を統率してみたいと思わないか? 代々マオキの男がやってきたことをお前がやってみないか」
「シシヒコはどうすんだよ」
「シシヒコはあくまでマオキの長だ。しかも今回戦に負けたことで女王の守り人としての力不足を疑っている人間もいる。シシヒコがいいやつだからみんな表立って文句を言うことはないけど、それは同時にナメられているということでもあるんだ」
 神の火の山の女神はマオキの男を伴侶として認めた。けれどマオキ族はあくまで人間の中から選ばれ穢れを祓われただけの存在だ。女神にとっては本来異物だったはずだ。異物を伴侶にすることはまったくありえないことではない。
 女神の時代から長い時を経た。山の民はそろそろ新しい風を入れる必要がある。新しい男を迎え入れて山を広げる。人間も女神もさらに強くなる。
「俺もいつまでも女神でいられるわけじゃない。女神でいられるうちに――山の民のみんなを無条件で黙らせることができるうちに、何か、したい。俺に力があるうちにオグマに山での地位をやりたい」
 本当は異民族に打ち明けていい話ではない。だが相手はオグマだ。ナホはオグマであれば夫として――真実を知る人間として迎え入れてもいい。
「ホカゲ族はおとなになるとただの人間になる。俺にもいつかただの人間になる日が来る。そうなった時も俺は女王でいられるのか、今はまだはっきりしていない」
「おとなになると?」
 オグマが首を傾げた。
「お前だってもう十八になるだろ」
「俺もどういう意味なのかよく分からない。ただ母上がいつもそう言っていた」
 母の顔を思い出す。雪のように真っ白な肌、こじんまりとした唇、漆を塗ったような黒い瞳の女だ。ナホは顔は彼女によく似ていると言われている。
「マオキ族のみんなが言うには、母上はこどもの頃最高の女神だったらしい。でも、俺が物心ついた頃にはもう炎を出せなくて、本当にただ舞を舞うだけの女王になっていた。俺もいつかはああなるんだと思う。母上は口を酸っぱくして言っていた、お前もいつかは使えなくなる日が来るから、使い方をよく憶えておいて、自分の子供に言葉で説明できるようにしておくように、と」
「もうちょっと具体的に何かないのか?」
「シシヒコが小さかった時はまだ母上が炎を出して舞っていたというから、たぶん俺を産んだくらいに使えなくなったんだと思うけど――男の俺にもそれが合うのかは分からない、何せホカゲ族には今まで男がいなかった」
 自分の手を湯から出して見つめる。意識を集中すると指先に小さな炎が燈る。
「俺はいつ女神でなくなるのか――いつただの人間になるのか。そうなった場合、山のみんなは、男である俺を、ずっと女王のままでいさせてくれるのか――俺には、分からないんだ」
 湯の中に戻すと消えてしまうが、湯から出すとふたたび燃えて空気が爆ぜた。
「力が使えなくなったら、俺は何をもって自分を女王であると言うんだろうな」
 死んだ母の言葉が、脳内にこだまする。
 ――火の山の神がお怒りになり、炎が荒ぶる時にこそ、その力を使うのだ。
 その日が来た時にも、自分は女王であれるのだろうか。
 不意に背後から枯れた草木を踏む音がした。
 慌てて振り向いた。獣が近づいてきたのかと思ったのだ。
 木々の向こう側から、甘ったるい声がした。
「お背中お流ししましょうか」
 テフの声だ。
 ナホは深く息を吐きながら答えた。
「いい。こっちは俺もオグマも裸だ、あんまり簡単に近づくな」
 木の幹の後ろからテフが顔を半分だけ見せる。一応見てはいけないものだと思っているらしい、目が合うとすぐに顔を引っ込ませた。テフの長い黒髪、束ねられた毛先だけが揺れている。
「ナホさまおひとりじゃないんですか。独り言かと思ってました」
「俺、どんな寂しい奴なんだよ」
 オグマが笑いながら「残念だったな」と言った。
「俺は別に大丈夫だ。むしろ、そうだな、テフも一緒に入るか。洗ってやるぞ」
 また目から上だけを見せつつ、テフが「遠慮します」と答える。
「テフもこどもじゃないので」
「そうかそうか、そりゃ悪かった」
 豪快に笑うオグマの隣で、ナホは荒々しい大声で言った。
「おとなの女だったら男が温泉に浸かっているところに来るか」
テフが小さく弱々しい声で応じた。
「だってナホさまおひとりだと思ったんですもの」
「俺ひとりだったらいいのかよ。いつまでも俺と遊んでいられると思ったら大間違いだぞ」
「そういう意味じゃないですよぅ」
 甘い声を出す。
「ねえナホさま、姉さまがしてたこと、テフが何でもしてさしあげますよ」
「何でもって――」
 テフの大きな黒目がちの瞳がナホを見つめている。
「たとえば、ほら――赤ちゃんができるようなことをしたりとか」
 ナホは顔をしかめた。
「帰れ」
 いつになく低く冷たい声が出た。
「お前じゃノジカの代わりにならない」
 直後、テフは後ろを向いた。そのまま、山の奥の方へ向かって駆け出した。
 テフの走り去る音を聞きつつ、ナホは溜息をついた。
「お前、赤ちゃんができるようなことをしたことあるのか」
 オグマの素っ頓狂な声にも苛立ちを感じて、乱暴に「ねえよ」と答える。
「一回も抱いていないのにアラクマのところへ行ってしまった」
「そりゃあ、何というか、アラクマを殺したいな」
「本当に殺してやりたい」
 湯の面を殴る。
「テフのやつ、どうしてこんな、俺が一生懸命忘れようとしているところを突いてくるんだよ」
「忘れようったってそう簡単に忘れられねえぞ」
 オグマが笑う。
「テフに限って言えば、俺は健気な子だなあと思うけどな。それこそ、構ってやったら喜ぶんじゃないのか? 次世代の女王候補を増やすつもりでな」
「嫌だ。冗談じゃない」
 ナホが欲しいと思ったのは、この世でたったひとりだけ――ノジカだけなのだ。
「ノジカがどうしても産めないなら、考えるけど。次の女王の母親はノジカであってほしい」
「頑固だなあ」
 オグマは肩をすくめた。
「ま、気持ちは分かるけどな」

 真冬の川岸は白く凍りついていたが水の勢いに変化はない。とうとうと、ごうごうと、水しぶきをあげながら冷たい空気を押し流している。
「ここを堰き止める」
 オグマの言葉に、集まった山の民の長たちはどよめいた。
「戦の勝敗を決めたのはカンダチ族の船の輸送力だ。海でも川でも湖でも、俺たちは水があればどこへでも行けるし何でも持っていける。逆に言えば、水がないところには何も持っていけない。全員が全員戦闘員で、輸送のための人員なんざ微塵も考えちゃいないからな」
 自分の出身部族を返り討ちにする話をしているというのに、彼はどこか楽しそうに見えた。そう言えば、いつだったか、強大な敵をどうやって倒すかに知恵を絞っている時が楽しいと言っていた。カンダチ族は彼が知る中でもっとも強大な部族だ。まして、そのカンダチ族でどうやって勝つか考えてきたからこそ、カンダチ族にどうやって勝つかも浮かぶのだろう。
 彼はこの二、三ヶ月で神の火の山を歩き倒して地理を把握した。そしてこの策を考案した。
 あとは、山の民を説得するだけだ。
「それでも――この西の川を堰き止めても東の川が残っていれば――河の水が完全になくならない限りは、カンダチ族は遡ってこれる。そこを逆手に取る」
 川をなぞるように手を動かす。
「奴らがのぼってきたところで、堰を切る。船を下流まで一気に押し流す。巻き添えを喰らって流されれば万々歳だし、武器や帰る手段を奪うだけでもかなりの打撃だ」
 ある部族の長が頬を引きつらせて「鬼か」と呟いた。
「うちのご先祖様がどれだけ苦労して河の流れを整えたと思ってるんだ。俺たちの村はさんざん流されてきたんだぞ」
 オグマは「分かってる」と答えた。
「身を切らずにカンダチ族を倒せると思わないでくれ。本気で戦うならそれなりの代償が要る」
 ナホは密かに拳を握り締めた。
 そこまでの覚悟を求めるとは、オグマは殺す気なのかもしれない。
 ナホにはまだそこまでの覚悟がない。ひとを死なせてまで勝利することに価値を見出せない。それでも、やるからには勝たなければならない。負ければ死者が出るのはこちらの方だ。必ず勝つための準備をしなければならない。
 シシヒコが一歩歩み出た。
「仮住まいはマオキの村が提供する。山の上まで来てほしい。マオキ族が最大限保証する」
「できるのか」
「カンダチ族に勝てれば、カンダチ族に納めなければならない作物が浮く。これから先毎年カンダチ族に渡すくらいだったら身内と分け合いたい」
 誰かが「まあ、マオキ族だからな」と言う。マオキ族は今なお最大勢力として信頼を寄せられているらしい。
「マオキ族なら、負けなければ、何とかなるだろう」
 また別の部族の長が挙手した。
「この川を止めたらうちの村の田んぼが干上がる。うちの分の米はどうなる?」
「その分も最悪マオキ族で何とか補填する」
 シシヒコが断言した。
「ただ、申し訳ないが、そっちでも、作付けする前に――今のうちに、何らかの対策を練っておいてほしい。水が来ると想定される場所の田畑の支度をしないでくれ。無駄になるのは確かだ」
「この秋の収穫はなしってことか」
「実ってもこのままだと半分がカンダチ族に持っていかれるんだよ」
 ある者が頷いた。
「俺たちは女王のためにせっせと田畑を作ってきたっていうのに、これから先はカンダチ族が存在する限り海に持っていかれるんだと思うと、癪なんだよなあ」
 別の者が「同感だ」と苦笑する。
「我々は毎年女王に作物を納めてきたんだ。よそ者に渡すな」
 さらに別の者が唸った。
「好きにさせたらだめだ。このまま海や河を占領されたら商いも満足にできないしな。鉄も塩もそのうち足りなくなる。今までどおりの暮らしができなくなるぞ」
 ひとりがシシヒコの腕をつかんだ。
「うちはやるぞ。山の富は山のものだ」
 次々と「そうだそうだ」「うちも」「我が一族も」という声が上がる。
「山は女神の下でひとつだ」
「俺たちの結束力を見せてやれ」
 ナホは複雑な思いだった。
 みんなが強いきずなで結ばれていることを確かめられて嬉しい。
 けれど――
「みんな」
 ナホが口を開くと、一同が揃ってナホに少し驚いた顔を向けた。
「ひとつ約束してほしい」
 女神のために戦うということは、すなわち、ナホのために戦うということだ。彼らは山の富を守ると同時にナホの一族の名誉をも守ろうとしている。
 それが、ナホにとっては、少し、つらかった。
「絶対に死なないでくれ。再来年はちゃんと収穫の秋祭をしよう。また、みんな揃って、ホカゲの祭に参加してほしい」
 事の発端はナホがノジカをカンダチ族から取り戻したくて考えたことだ。今は山の民全体の富と名誉の話にまで発展しているが、元をただせばナホの個人的な恋慕の話だったのだ。そんなことに民を巻き込んでも平気な顔をして舞える女王でありたくなかった。
 誰一人、ナホのために犠牲になっていい人間ではない。
 全員が、黙ってナホを見つめている。
 ナホは緊張のあまり唾を飲んだ。
 思えば自分が大勢の前で発言したことはなかった。これが初めてかもしれない。
 自分の言葉は皆に届いただろうか。とんちんかんなことを言ってはいないだろうか。
 ひとりの青年が口を開いた。ナホは反対に唇を引き結んだ。
「失礼だが――」
 胸の奥が、冷える。
「あなたはどなたか?」
 ナホは蒼ざめた。
 今のナホは女王を装っていない。マオキ族の若者の着物を着て髪をひとつにまとめている。
 少年であるところのナホは存在を誰にも知られていないのだ。
 今の自分の言葉は、誰にも届かないのだ。
「どこの村のお方か」
 シシヒコが慌てた様子でナホの前に庇うように立った。
「僕の弟なんだ、父の隠し子で」
 一同が顔を見合わせた。目配せし合った。やや間を置いてから、「なるほど」「そういうことか」という囁き声が広がった。
「イヌヒコ殿が色事に長じている印象はないが――」
「まあ、マオキ族ほどの大きな部族の長だったら、なあ。女だってより取り見取りだし」
 ナホは心の中で今は亡き正妻一筋だったイヌヒコに謝罪した。あとで本人にも直接断りを入れると誓った。
 先ほどの青年が苦笑した。
「弟君ならなおのことカンダチ族には一矢報いたい気持ちがあるだろう。何せ、姉君のノジカ殿が向こうの手に渡っているのだから」
 ノジカの名前を聞いて、ナホは反射的に目を丸くした。自分の内心が見透かされているように感じるのだ。
「我々としてもノジカ殿は取り戻したい。女王がノジカ殿に信を置いている、女王はきっとノジカ殿を返してほしいとお思いだろう」
 見ていたのだ。少年である本物のナホのことは知らなくても、女王であるナホのことはよく知っているのだ。
「女王にとって必要な人間は我々にとっても必要な人間だ」
 そして、ナホが一番恐れていたことを口にする。
「カンダチの連中が早まってノジカ殿を手にかけなければいいけど」
 すぐさまオグマが「それはない」と言い切った。
「アラクマは簡単に女こどもを殺す奴じゃない」
 ナホはオグマを信じることにした。オグマは世界で一番アラクマのことを理解していると確信することができた。何せ双子の兄弟だ。オグマが言うなら間違いはない。
「ノジカとやらがアラクマやカンダチ族の女こどもに刃を向けるようだったら別だけど、話を聞いている限りそういう奴だとは思えない」
 誰かが「信じてもいいのか」と問い掛けた。オグマは「任せろ」と笑った。
「それに、人質は生きているから価値がある。アラクマは馬鹿じゃない、殺すなら俺たちの目の前でやろうとするはずだ」
 そして、「俺がさせない」と断言した。
「絶対に、俺が取り戻して、お前らに返してやるからな。楽しみに待っとけ」
 ナホは確かにその言葉を受け取った。


第1章:https://note.com/hizaki2820/n/n50f7e0d84cc1
第2章:https://note.com/hizaki2820/n/n38dc40c12fcf
第3章:https://note.com/hizaki2820/n/n075bcfc95d4e
第4章:https://note.com/hizaki2820/n/ne118e8987bc0
第5章:https://note.com/hizaki2820/n/nc7abf93ea1ef
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第7章:https://note.com/hizaki2820/n/n52982e0af092
第8章:https://note.com/hizaki2820/n/ne248d8a04975
第9章:https://note.com/hizaki2820/n/ne0b989766113

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